私のC51アルバム-村樫四郎-
ご挨拶 2010.1.20

現在はこの趣味業界で干され作品を見かけることがない田澤義郎という写真家がいます。50年以上前のある日、私の朋友の朋友という縁で知り合った高校生の彼から自身で撮り溜めた写真集「C51アルバム」を見せて貰いました。私は特定の車輌を追いかけるのではなく風景の中の(列車)写真を撮っていましたので、まあなんと物好きなとの感想でしたが、後に撮り溜まる自らの写真のなかのC51を眺めるうち、鉄道広軌化計画が消えた中で狭軌で当時の限界に挑んだ設計が醸し出すエトバスに共感するようになりました。
 時が過ぎ、10年前に昔の写真をスキャンしたとき思いつき、C51の居るシーンをピックアップし私家版「C51アルバム」を作り、今回写真を提供して貰った長谷川進吾さん他数名に進呈しました。この機関車はブームが来る前に全機廃車となり静態保存機として239号機が梅小路、5号機が大宮に残っているのみですから、現役時代の写真は珍しさ半分で見て頂けるのではないかと考え、この私家版と其れに漏れたシーンを加え寺田さんのご厚意でここに発表することに致しました。
 一部雑誌等に発表された写真もありますが「私のアーカイブ」ということと、それらを見ておられない方も居られると考えて含めました。
「他人の撮った写真なら冷静に取捨選択出来るが、自分のものは愛着があってついつい拾い上げてしまう」との批判は覚悟の上、甘い自薦作品を並べることをご容赦下さい。タイトルは西暦と月、撮影地、番号(判明するものだけ)の順で、撮影地の表現法は例えば「東京/有楽町」とあるものは、東京・有楽町間で東京から有楽町方面へ走っていることを表すことにします。保存状態の悪い40年以上昔の画像です、粗粒子、カビ、傷等の見苦しい点もご容赦下さい。(村樫四郎)


[私のC51アルバム(村樫四郎)トップに戻る] [ワード検索] [管理用]


[140] 58−6 白老 -  

番号不詳 私が始めてC51を見たのは先の敗戦から間もなく昭和天皇千葉県巡幸のため新小岩機関区に来た239号機で、電車の窓からちらっと見でも動輪の大きくピカピカで日頃見ていた煤けた機関車とは違うなという印象でしたが、小学校低学年の身でカメラなど持って居らず写しておりません。
1958年6月(以後年号は西暦末尾2桁で表します。)北海道は白老付近をバスで走っているとき平行する室蘭本線上を追い越して行く上り準急千歳にシャッターを切りました。これが、C51と意識してではなく只反射的にシャッターを押しただけですが初めての写真です。トンネルが無い未電化区間なので助手が可成りゆれているはずのテンダー上で石炭をかき寄せていますが、動労が当時は未だ強くなかったのでしょうね。




[139] 58−6 青森 -  

C51223 上り急行みちのく、未だはつかりは運転されておらず北海道連絡の看板急行列車でした。この重連で盛岡まで突っ走るのです。




[138] 60−10 奥中山/御堂 -  

番号不詳 この頃には青森のC51は全滅に近く上りはつかりはC60補機みちのくはD51補機です。この場所は有名な撮影場所で、このとき背後にはD51重連のドラフト音が迫っていてこのカットを写すとすぐそちらの撮影にかかってしまいました。あとでこのショットを拡大してみたら本務機は生き残りのC51しかも飾り煙突であることを知り、それが判っていたらD51などは放り出してこっちを追ったのに、と悔やみましたが後の祭りでした。




[137] 61−4 諫早/岩松 -  

C51282 当時長崎発のローカルは諫早まで本線と大村線へゆく編成を併結、機関車も重連で来て諫早から分割し単機となって各々の目的地に向かって運転しているものがありました。次のカットが諫早まで一緒に来た片割れです。




[136] 61−4 諫早/肥前長田 -  

番号不詳




[135] 61−4 諫早/岩松 -  

C51251 ここから緩い勾配でサミットを超えますが現車が少ないので快調にとばします。後年C57の列車にも乗りましたがC51の方がドラフトの歯切れが良く爽快だった記憶です。





村樫四郎さんC51TOPに戻ります
■■
top
轍楽之路サイトTOPへリンク

- ClipBoard -