1980年代の中国DL[3]外国製ディーゼル機関車 NY7
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包頭行直快列車は八達嶺越えに備えてNY7重連が牽引.塗装の痛みが目立ちます.北京駅.1988.9

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NY7同士の連結面.ブレーキホースはたすき掛けにしません.北京駅.1988.9

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こちらは北京型との重連.塗装が廃車体のように褪せてます.北京駅の建物は重厚で立派ですね.1988.9

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北京型と重連で八達嶺を越える姿です.全長16.3mの北京型に較べて親子のようなNY7型は客車とほぼ同じ23.6mの全長を持ちます.これでも北京型の方が本務機で、次のスイッチバックの青龍橋駅では北京型が編成反対側に付き、NY7型は切り離されます.1984.5

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2両併せて10000馬力で八達嶺の33‰に挑みますが、速度は30km/hほどまで落ちてしまいます.はたして全力を出し切っていたのかは疑問です.エンジン音より過給器(ターボチャージャー)のキーンというつんざくような高周波音が凄まじく、脳天に響きました.1984.10

NY7はNY6型 と同じく1972年から導入された西ドイツ(当時)ヘンシェル社製、液体式の旅客用機関車で車体自体は全く同じ、機番もNY6型が0001-0010なのに対し、NY7型は0011-0030と連番です. 相違点はエンジンがベンツ製からマン製に変わっています.出力はこちらの方が大きくて、一基あたり2500ps.機関車としては5000psのビッグパワーです.
NY5・6・7型併せて34両が輸入されていますが 西ドイツが何故共産圏の中国に優秀な機関車を輸出したか、何故エンジンを2社に分けたかというのは西ドイツ国内の政治的な事情によるものでしょう.1967年に発足の欧州共同体ECの影響もあると思います.中国への機関車輸出(実質的には援助?)は政治抜きにしては語れない部分があるでしょうね. ヘンシェル機は使用開始から数年間は使いこなせず、故障休車機が多かった時代もあると聞いています.1984年に北京機関区を訪問したときには、庫の中に多数のWest Germanyと書いてある未開封の大小の木箱が積んでありましたが修理部品だったのでしょうか.
軸配置C-C、エンジン マンMAN12 V 956型×2(2500ps/1500r.p.m.)×2、全長23.6m、重量138t.最高速度120km/h以上となっています.エンジンの型式を見るとNY6型は16気筒、NY7型は12気筒のようですね.
同じ京局京段(北京機関区)に所属はしていてもNY6型とは共通運用ではなく、NY7型の方はもっぱら大同、包頭方面の京包線で活躍していました.京包線では北京郊外の万里の長城観光で有名な八達嶺の急勾配を越えるため、全部の列車がNY7型同士、または北京型と重連を組んで33‰に挑む迫力シーンが見られました. 実はこの急勾配区間をバイパスする勾配のほとんど無い複線(1986年に電化)の路線が存在し、貨物列車はすべてそちらを経由していたのですが、モスクワ行、モンゴル方面の国際列車をはじめ大同、包頭方面の優等列車などはわざわざかつてはマレー機が挑んだ33‰の急勾配と、進行方向が変わってしまうスイッチバックのあるこの区間経由でした.旧京清鉄道が難工事を克服して建設したこの区間を誇りに思っているのか、八達嶺万里の長城を見せたかったのか、貨物が精一杯で線路容量が本当に足りなかったのか、どうだったのでしょうか?
NY7型は数年前までモスクワ、モンゴル方面への国際列車のモンゴル国境駅二連(二連浩特)までの区間をロングランしていましたが、現在は東風11型に置き換えられたということです.長年国際列車を牽引していたということはそれだけパワーと信頼性があったんですね.
残念なのはいつもピカピカに磨かれていたNY6型に較べてNY7型は塗装面の痛みの多いクルマが多く、侘びしい気がしました.同じ機関区所属なのにどういうことでしたか.

北京駅での写真が多いですが、北京駅では不正乗車防止のため入場券による入場が厳しく制限されていました.撮影のためだけの入場は正式には難しく、列車に乗車する場合でも外国人の場合は出発時間ギリギリに案内されることが多く、のんびり撮影している時間が無くて大変です.入場する改札口は跨線橋上ホーム毎にあるために隣のホームへ移動して撮影するのもまず不可能、日本国内で自由に撮影するのとはだいぶ勝手が違いました.一番のチャンスは列車に乗って到着した時です.最悪追い出されるだけですから.

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