【安楽鉄道趣味】轍楽之路 Weblog by 寺田牧夫
轍楽之路(てつがくのみち)主宰の寺田牧夫(田駄雄作)が鉄道趣味、旅、写真の話題を中心に私の興味あるジャンルの話や諸事彩々、私のお気楽に写真とともに、脈絡もなく、気ままに、無責任に綴りおきます. 話のタネや酒の肴としておひつまぶしにお付き合い下さい.  同調、訂正、苦情、提案、罵倒などのコメントや掲示板への書き込みお待ちしています. (1ページに最新5つの記事が表示されます.Archives、カレンダーから過去の記事もご覧下さい.) ※各画像への直リンクや営利非営利とも2次使用はご遠慮下さい.(発見された場合はご通報をお願いします)※
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No.221 私は出撃が嫌い

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出撃というのは攻撃、あるいは迎撃に出かけることのみを言う言葉です.「つまり戦争に行く」という意味になります.戦争とは言ってもいろいろな戦争があるでしょう.しかし「受験戦争に出撃する」とか「交通戦争に出撃」なんて言いますか.
出撃とは「武器を持って敵を攻撃に出かける=人殺しに行く」という意味でしか使わない、まことに物騒な言葉なんです.

ところが鉄道関係のネットの世界ではこれがよく使われています.明日は○○方面に出撃予定、とか△△へ出撃しました.本年の出撃回数は○回でした.などと判らない人が聞いたら、なんじゃろかい!という書き込みがずらずらと掲示板に並んでいます.
「出撃」で検索をかけると、実際の戦争の話題を除くと、ゲーム、格闘技そして鉄道関係のサイトが多くヒットします.それ以外の趣味のサイトはほとんど見当たりません.一般的な言葉ならもっといろいろな趣味でも使われそうですが.

ある方から聞いた言い分(イイワケではなくイイブン)はこうです.
「英語で写真を撮ることをshot と言うのだから、その和訳である撃つだって同じ.だから撃ちにでかけることを出撃と言ってどこが悪い」
一理ある、と言うのには無理がありますが、ご本人が納得されているなら使うのはご自由ですし、止めようよ、と呼びかける気もありませんのです.誤解無きよう.

英語のshotには「ナイス・ショット」なんていうゴルフや野球の一打や、「ショット・バー」などと使う一杯の酒.目的や推理、ギャンブルの賭けチャンス、(カンフル剤の)注射、なんて言う意味もあります.もちろん本来の銃器を撃つという意味があり.さらには写真を撮る、またはその作品 ももちろんあります.
でもね、これらの訳語は全てが撃つじゃあないですよね.ある時は「打つ」だったり「射つ」「撲つ」などとも書きます.写真の場合は「写す、撮る」が当たりますが、ショットと言うと「瞬時に写し撮った」風のニュアンスがありますね.(写真はそういうものですが)

つい最近まで私も平気で使っていた「爆煙」という言葉も問題あり、とのご指摘がありました.蒸気機関車がモクモクと盛大な煙を吐く様を表すには最適な言葉だと思っていたのですが.
私は「爆発な煙り」 という意味があるのかと思っていたら「爆発による煙り」だけでした.考えてみればそうですよね.爆煙という言葉を聞いて思い浮かぶのは戦火か噴火、地震、事故などの災いですよね.今後は使い方やタイミングに気を付けるつもりです.

私は戦後生まれですが、武器、兵器を使って闘い、多くの犠牲者が出る悲惨な戦争は大嫌いです.ですから憲法改正についても慎重派です.
しかし戦争映画はよく見ます.武器、軍用機、軍用船などには人並みに興味がある時期を過ごしたこともあります.ソリッドモデルやプラモデルも随分作りました.それらが平和のための科学技術を発展させ、軍事需要が今の繁栄をもたらしたことも認めた上で、やはり嫌いです.
その平和な世の中で成り立っている「楽しい趣味活動」を誰が言いだしたか、わざわざ戦争に例えるのは私には理解できませぬ.

撮影場所争奪戦、暴走車での大追跡、軽装備で本格的登山紛いの俯瞰撮影、酷寒の雪中行軍など命をかけた戦争なんでしょうか?

「今日はパパ出撃してくるから!」と言って出かけるのでしょうか?

繰り返しますが、ご本人が納得されているなら直接何も言いません.止めようよ、と呼びかける気もありません.これはあくまで私の個人的な考えをほざいてるだけなんですから.
「そんなこと、どうでも良いじゃないか!」
「はい.どうで〜も良〜いで〜すよ」


上の写真は1972年小海線信濃川上駅.本文とは無関係です.

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2006/02/28 AM 11:50:11 | [雑記・雑感・ぼやき・ほざき]

No.220 がんばれ"かしてつ"4

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今はキハの旅客列車ばかりですが、鹿島鉄道もかつては一般貨物も扱っていて、鉾田までワムなどを連ねた列車を見ることができました.さらに航空自衛隊百里基地への燃料輸送列車が石岡-榎本間、毎日2往復のタンカー・トレインが設定されていて、一般貨物廃止後もファンには嬉しい撮影対象でした.

その様子は本編や2月18日当ブログ「がんばれかしてつ」1でもご覧頂けます.
1980年代中頃まではユーモラスな顔つきのDD901と国鉄DD13タイプのDD902 の2両が使われていたのですが、1986-7年に国鉄DD13171、DD13367を譲り受けてDD901の置き換えと予備機となっています.

この燃料輸送は鹿島鉄道の屋台骨を支える太い柱だったのですが、2002年に突如自動車輸送に切り替えられてしまい、3台のDDはその職場を失うことになりました.それまでも鹿島鉄道は将来に向けての存続が危惧されていたのですから、このことはまさに首根っこを押さえられてしまったようなもの.この時点で運命はほぼ決まっていた、とも言えます.
↑の写真は燃料輸送廃止後の2002年11月、石岡機関区に並ぶDD13171+DD902+DD13367.現在はDD902のみがオレンジ一色に身をまとい、工事列車やイベントに活躍しています.

この様な書き方をすると「お前は廃止に賛成なのか!」とお怒りになる方が居られるかもしれません.前にも書きましたが、存続に向けてのよい方策があるのならそれにこしたことはなく、鉄道ファンの立場から言えば反対に決まっています.
しかし現実は現実で、結局地元自治体が支えない限り存続は不可能な状態ですし、車両施設の維持改良には多額の投資が新たに必要です.撮影していてもクルマで容易に追跡できる、ということはバスに置き換えても所要時間は大差ないということにもなります.
廃止を惜しむ気持ちは私も大いにありますが、現実的な問題ですから余所モンがロマンで廃止反対を唱えるのは慎重にしたいと思います.

そういえば前述の2台のDD13、2003年4月に盛大なさよなら行事で中国承徳へ送り出されましたが、その後のレポートを見ません.同時に送られる予定だったJR北海道の客車はしばらく港に放置してあったとか、どうなっていますでしょうか.

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がんばれ"かしてつ"!

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2006/02/27 PM 06:46:54 | [さよなら 鹿島鉄道]

No.219 がんばれ"かしてつ"3
少々間があいてしまいました.どうも体調が思わしくなく、加えて早くも花粉症が始まってしまい目と鼻がショボショボの状態でゆっくりPCの前に座っていられません.不眠症で仕方なし?に夜明けのテレビも見ていましたが.

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鹿島鉄道キハ430形431、432の2両はもと加越能鉄道加越線(石動-庄川町、1972年9月15日廃止)のキハ120形(125、126)です.1957年東急車輌製で、東武鉄道熊谷線のキハ2000形とほぼ同型です.(写真下1976妻沼)

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全長16.5mの小型ボディで乗務員室が無いのが特徴です.数年前に432が前面がいわゆる「金太郎の腹掛け」塗りに、次いで431がグリーンとクリームのツートーンに塗り替えられて人気があります.現在の姿は多く発表されていますので、ここでは2002年12月の前面直線塗り分け時代の姿をご覧下さい.
実はキハ714の列車を撮りたくて、早朝から出かけていったのですが当日は431+432が代走でがっかりしたものです.しかし今は撮れない姿、何が幸いするか判りませんね.

この車両の台車(TS102A)です.

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一見他のキハ601やキハ714が履いているTR29系の菱形台車と同じように見えますが、よく見ると中央にあるはずの枕バネが空欄?になっています.実際内側に存在するのかどうかはよく判りませんが、この台車に23tという軽量も手伝ってか、かなりかなりな乗り心地です.私の知ってる限り、かつて銚子電鉄で乗った101と同等かそれ以上のもので、下手におしゃべりをしようものなら舌を噛む危険性もあるかも.なかなか文章では表現できませんが、ぜひぜひご体験下さい.


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がんばれ"かしてつ"!

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2006/02/26 AM 12:25:49 | [さよなら 鹿島鉄道]

No.218 がんばれ"かしてつ"2

先日No.215 がんばれ"かしてつ" を書きましたが、ついに来年3月に廃止するべく廃止届けを出す、ということが鹿島鉄道社長により表明されてしまいました.
今後も存続については模索してゆく、とのことですが、これは2年前の日立電鉄の時と全く同じパターンです.見通しは悲観的と言わざるをえません.
現実的な話しをすれば、新車を投入せずクラシック・カーを騙し騙し使い続け、親会社の関東鉄道からもキハ601、602よりは相当新しい旧車を転属させなかったのも既定の方針であったのかな、とも思います.日立電鉄でも、評判の良かった旧塗色への塗り替え方針が急に中止になった時点で廃止がほぼ決まっていた、とのことです.
もちろんホワイトナイトが奇跡的に現れる可能性はゼロとは言えませんが、今我々にできることは乗って、撮って、記録と記憶に残すことだけじゃないでしょうか.

その鹿島鉄道の人気者キハ714はもと北海道の炭鉱鉄道夕張鉄道キハ251です.1953年製、国鉄に先立って新製された液体式気動車の草分け的存在になります.1970年の夕鉄廃止に伴ってほぼ同時に同じく廃止になった三井芦別鉄道車などと当時の関東鉄道、現鹿島鉄道に転属してきました.その仲間達はすでに廃車されていますがこの714のみが冷房化もされて健在です.
この写真は1969年3月平和-錦沢間で偶然撮影していた 夕張鉄道キハ251です.向こう側の車両が片運転台車でキハ251も運転手側の乗務員扉が無いので、長いこと片運車同士の2連と思い車番確認もしていませんでした.
数年前にたまたまルーペでネガを見るとキハ251じゃあないですか!キハ714の夕張鉄道時代を撮っていたと判り、妙に嬉しかったものです.

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転属後、1977年にはクロスシートがロングに改造されていますが外観は夕鉄時代とほとんど変わらず、雨樋無し、運転手側の乗務員扉無しの姿で使われてました.写真は1979年八木蒔-浜間.

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1981年2月榎本駅です.この時点で雨樋と乗務員扉が取り付けられたことが判ります.冷房化は1991年だそうです.

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キハ714はドア位置の関係でワンマン化改造されていないため、日中の列車には使えません.平日の朝の通学列車1往復にキハ601型と2連で走るほか、毎月第2土曜日に日中1往復、特別に単行で運転されます.普段、石岡で留置中もサイドに競馬雑誌の広告が掲出されているためか、常磐線の車内から見える場所が定位置です.
がんばれ"かしてつ"!

※写真は本編から転載しました.

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2006/02/21 AM 01:27:35 | [さよなら 鹿島鉄道]

No.217 DD15 おうじ号

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1970年春休みはもちろん北海道行き.函館本線のC62重連、大夕張鉄道、日高本線などでのルーティン・ワークをこなしていました.中でも日高本線は一応コンテを作って撮影をしていたので、静内の国鉄寮を基地にして連日沿線を廻っていました.当然のことながら機関車の基地である苫小牧機関区でのカットも必要と思い、訪れたのが4月1日だったようです.さすがに4月となると陽射しは暖かく、日中歩き回ると汗をかく程の陽気にもなっていました.
当日のネガに祝賀マークを付けたDD1525が写っています.確か機関区の方か機関士さんにお話をうかがったような気がしますが覚えていません.
調べてみると1970(昭和45)年4月1日より、苫小牧(一部東札幌)-小名木川間に紙専用列車が「おうじ号」として初めて運転を始めています.ちょうどその日の祝賀機関車がDD1525号機だった、というわけです.
もちろん室蘭本線をDD15が牽引して走る、ということではなく、王子製紙の工場専用線から苫小牧駅まで引き出してくる役目で、工場出発に際し盛大な出発式が行われたものと思います.「おうじ号」はワキ5000型パレット貨車17連+ヨ ということなので、この写真のバックに写っているワキ5000の編成がそうなのでしょう.となると、このシーンは大役を果たして機関区に戻ってくるところでしょうか.

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DD15の部分だけトリミングしようかと思ったんですが、バックの煙突、信号所、信号やポイントに連動するロッドなど、当時の苫小牧駅構内の光景が懐かしくてカットできませんでした.
初めての紙専貨「おうじ号」、当時の室蘭本線での牽引機がD51であったか、DD51だったのかは不明です.鷲別以東でDD51はまだほとんど見かけない時代でしたが.

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2006/02/20 PM 02:21:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | [電気・ディーゼル機関車]

No.216 スペイン、街中の機関車

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偉そうに言うほど外国には行っていませんが、テレビや映画などを見ていると、モニュメントとしての保存機関車が何気なく写っていることがよくあります.町や地域の発展の功労者としての機関車への愛情、感謝の念を感じ取ることができます.
日本でも新橋駅前のC11を筆頭として多くの保存機があります.それらは文化遺産的な意義はあるにしても単なる飾り物のようなものも多く、保存管理する自治体などではお荷物的存在になっていて、傷んできたり、昨今のアスベスト問題などが起きるとこれ幸いと廃棄してしまおうとするんですから悲しいものです.

このナローのコッペル?はスペイン北部、片田舎の空き地になにげなく置かれていました.モニュメントなのかどうかは判りません.多少錆びてますが、それほど荒れてもいなくて、銘板以外は部品の欠損も目立ちません.何時作られ、何処で使われ、何故ここに置かれているのか、など通りすがりの旅行者には知るよしもありませんが一期一会の出会い、ということで記念写真を撮りました.今はどうなっているのでしょうか.

同じ街だったかどうか公園の遊具の機関車もありました.見るからにオモチャですが、何故か愛らしくて気に入りました.撮影はいずれも1976年9月です.


このブログ、「すくすくBLOG」アクセスランキングで本日なんと11位にランクされています.それはそれで嬉しく光栄なんですが、昨日のアクセス数が3450になっています.しかし私が独自にセットしているカウンターでは毎日200アクセス前後しかありません.
本編のアクセス数も通常は同様なので、そう思っていましたが実際のところはどうなんでしょう?そういえば最近検索をしていると当ブログがよくひっかかるような気がします.
本編の方はトップページ以外はno robots のタグを入れているので、検索にはほとんどかからないのですが.



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2006/02/19 PM 07:34:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | [ヨーロッパ]

No.215 がんばれ"かしてつ"1

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"かしてつ" こと鹿島鉄道が廃止の意志を固めたことが報道されました.乗客減、百里基地燃料輸送廃止、TX開通による親会社関東鉄道の減収、車両施設の老朽化など厳しい状況は理解していましたが、いざとなると昨年の日立電鉄と同じように空しいものです.
もちろん、まだ決定というわけではなく、当然正式発表もされていません.
沿線自治体、住民やファンによる鹿島鉄道を守る会では以前より存続運動が行われていて、先日からは「カシテツを救え.かしてつブルーバンドプロジェクト」も展開されています.
私は所詮外野の野次馬的立場であり、趣味的に関わりがあるだけです.切実な当事者(企業側、利用者側とも)の気持ちに立つことはできません.個人的には、古いディーゼルカーが長閑に霞ヶ浦湖畔を走る情景が消えるのは残念です.できればいつまでも残って欲しいな、とは思います.しかし口だけで浪漫を語るのは無責任とも思いますので、一応公の場であるこのブログで廃止反対論を述べるのは止めときます.
でも廃止しないですむ方策があるなら、もちろん大賛成です.

もう四半世紀以上前になる1981年2月、鹿島鉄道沿線で撮影中に雪が降り出しました.当日はタイヤチェーンを持っていなかったので速攻で退散したんですが、雪の止んだ2日後雪景色を期待して再訪しました.
上の写真は降り出した日、浜-八木蒔間のキハ601です.全検上がりかピカピカで、塗り分けも当時の鹿島鉄道(=関東鉄道グループ=京成電鉄グループ、小湊鉄道も同じ)標準色で、正面には貫通扉がある姿です.

同日捉えたDD902牽引の燃料輸送列車.当時は2往復のタンカートレインが走っていました.

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2日後、一番雪の残っていそうな桃浦-八木蒔間の切り通しでキハ713(もと三井芦別鉄道)を撮影.

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榎本駅で待機のDD901牽引のタンカー回送.オーバークールしないよう大きなラジエータにはカバーリングされています.

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夕日を浴びた列車を浜-八木蒔間で待ちかまえます.ドゥルルルルルル〜という低いエンジン音にカランカランとロッドの音が重唱します.

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貨物は途中駅を通過なので厳しかったですが小川高校下で追いつきました.

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がんばれ"かしてつ"!

※写真は本編から転載しました.

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2006/02/18 PM 06:30:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | [さよなら 鹿島鉄道]

No.214 準急「はるな」誕生
最近小田急絡みの話題が多いと思っていたら、ロマンスカーの前面展望席の発売当面中止だそうです.ダンプカーがぶつかっても大丈夫、なんていわれてましたがそんなに脆かったんでしょうか.2年前に北海道日高線のキハ40に乗車したとき、窓ガラスに頭をよりかけたら凹んだので驚きました.ガラスじゃなくてポリ・カーボネートだったんですね.JR北海道の特急車両は窓ガラスの外側に、砂利飛散によるガラス破損対策としてやはりポリ・カーボネートを貼っています.視界に目立った影響は無いですが、列車が振動すると景色が微妙にぶれることがあります.

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1965年10月1日、上野駅にて.
準急「はるな」は上野→前橋、渋川→上野で運転された165系7両編成の準急列車です.今の「あかぎ」のルーツともいえますが、当時同区間に準急「あかぎ」も走っていて後に統合されています.
翌1966年3月5日から100km以上の準急は急行に格上げされてしまいましたので、 準急として走ったのは わずか5ヶ月間だったことになります.
当日は東北本線盛岡電化の改正で483系の電車特急が運転開始となり、多くのファンが集まっていましたが祝賀マークが付いたのはこの列車のみでした.ヘッドライトが半分隠れてしまうような装飾は今では考えられませんね.

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2006/02/17 AM 12:30:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | [電車・気動車]

No.213 井笠鉄道神辺線

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井笠鉄道は岡山県に存在した762mmゲージの軽便鉄道です.関東モンとしては西武山口線で一時期走っていたコッペル[1]号機と、同線廃止まで使われた木造客車くらいでしか縁がありません.

井笠鉄道鉄道の本線とでもいうべき笠岡-井原間は1971年3月31日に廃止になり姿を消していますが、それに先立つ1967年3月末には矢掛線(矢掛-北川)、神辺線(井原-神辺)両線が廃止されています.
井笠鉄道自体、私は行ったことがありませんが、この写真は春休みでたまたま福山の親戚に滞在していた友人が撮ってきてくれた神辺線のサヨナラ列車です.詳細は忘れましたが、1967年3月31日.確かネガの隣のコマには福塩線の86貨物が写っていたはずですから、神辺-湯野間だと思われます.
車両は模型でお馴染みのデッキ付きホジ12+(西武に来た)ホハ1型客車.上の写真には貨車も付いています.車内どころかデッキまで超満員の乗客ですね.

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井笠鉄道各線の跡地は1999年、というより平成11年11月11日11時11分に開通した、第3セクターの井原鉄道(総社-清音-神辺間)の用地として活用されています.

地方私鉄の駅名にはまともには読めないものが多いです.今回出てきた駅名も井原=いばら、矢掛=やかげ、神辺=かんなべ、は難読とはいえるかどうかは別として迷いますね.

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2006/02/16 AM 12:57:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | [私鉄・専用線・トラム]

No.211 急行色のキハ51

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同じ1967年2月11日、龍ヶ森駅で見たキハ51です.2両目のキハ58との車体幅の違いが大きいです.
当時の花輪線と山田線、旅客列車の主力は気動車でした.しかしどちらの線も20-33‰の急勾配があるため1エンジンで非力のキハ17、キハ20などは使えず、2エンジン車中心の編成を組んでいました.標準的なのはキハ52×2+キハユニ26の3両編成で、キハ52の換わりにキハ51やキハ55、キハ58も見ることが出来ました.キハ58は修学旅行色の800番台などもよく見かけましたね.
しかし何といっても珍しいのはこの急行色のキハ51です.急行色はキハ58系とキハ55系の専売特許(死語20年!)なので、珍車中の珍車といえるでしょう.
最近茨城交通で復活した薄黄に赤帯のいわゆる準急色、というのはキハ55系の他にキハ25やキハ51なども見られ、実際準急列車に組み込まれていたようですが、この急行色のキハ51は急行編成に組まれて快走したことがあったかどうか.もちろん羊頭狗肉とでもいえるような使い方ですが、枕バネがゴム製のDT19台車は軽いキハ17だと結構ストレートに振動が伝わってきます.お世辞にも良い乗り心地とは言えないものですが、2エンジンで重いキハ51だとなかなかのものになります.しかし車内は狭く、肘掛けの無い、ビニール張りの座席や丈の短い背ずりなど、急行料金を徴収するには厳しいものがあったかも知れません.
この写真は1967年12月27日、山田線区界駅.2両目が急行色のキハ51です.どちらも車番は判りませんが同じ車両でしょうか?

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あれから40年経っています.さすがにキハ51は見られませんが、キハ52やキハ58が当時と同じ国鉄色をまとった車両も含めて現役で頑張っているのも、考えてみれば凄いものがあります.

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2006/02/14 AM 12:56:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | [電車・気動車]

No.210 龍ヶ森の8620
今朝は開会式、寝ずに見てしまいました.オリンピックの開会式は夏冬とも1964年の東京以降、ほとんど生で見ています.そういえば1988年のソウルは中国の大同で見ました.
私なりに印象的だったのはミーハーですが、フェラーリF1(ドライバーは誰だったのかな?)、オノ・ヨーコ、ソフィア・ローレン、ルチアーノ・パヴァロッティ.もちろんその他構成や間の取り方が絶妙でしたね.素晴らしいエンターテイメントでした.
しかしNHKさんは何でパヴァロッティの唄を途中で切っちゃったんだろうか、と思います.後で他局の録画で見たら、もう少しで終わりだったのに残念です.


今日は建国記念の日(が入ります)です.戦前は紀元節と言ったらしいですが、私はもちろん知りません.
建国記念の日が祝日として制定されたのは1967年からになります.その当日、39年前の今日は花輪線龍ヶ森で8620型牽引列車の撮影をしていました.前日は奥中山で撮影後、龍ヶ森駅構内にあるオハ31型客車の車体を流用したヒュッテに宿泊でした.
早朝6時14分に赤坂田から登ってくる322列車は8620を前後に付けた混合列車.先頭の86が駅構内に差し掛かっても最後尾の逆向き後補機は33‰のトンネルの中で煙りに巻かれています.

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8時4分に岩手松尾から登ってくる貨物383列車は前2後1の3機運転.Sカーブの先に何とか後補機まで入れることが出来ました.

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次は雪の峠道を歩いて赤坂田方面へ移動、客車3両牽引の1326列車と貨物380列車を撮影.380列車は短めの編成ですが、前後で力闘する8620の姿は感動もんです.

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1日4-5往復の86列車が峠の両側から登ってきましたが赤坂田側には500mのトンネルがあり、力行シーンを撮るためにはその度にかなりの距離の移動を強いられ、結構しんどかったものです.
朝の322列車がトンネル内を登ってくるシーンを出口から見ていると、焚き口戸を開けた瞬間に真っ赤な86のシルエットが浮かび上がります.何とか撮れないものかと考えましたが、当時のプアな機材と感材では到底不可能でした.

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2006/02/11 PM 10:50:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | [現役蒸機の時代]

No.209 北の果て稚内

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1970年12月1日、C5550牽引の急行「利尻」で訪れた、寒い寒い稚内駅です.原寸サイズでは判らないかも知れませんが、クリックして拡大すると読める「函館から685キロ」の表示は本当に遠くへ来たんだな、とあらためて実感させてくれました.
稚内とほぼ同じ北緯45°のイタリア、トリノで冬期オリンピックが間もなく開会します.起きてられるかな?

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2006/02/10 AM 01:13:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | [駅]

No.208 80年代中国DL[13]
第13回は東風4型(DF4)です.

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上は北京郊外、京包線清河駅付近で見た一ケタナンバー0008号機の牽く貨物列車です.

中国国鉄では最もポピュラーな機関車で1969年から製造を開始、すでに5000両を越える仲間が国内いたるところで活躍しています.中国の鉄道と言えば前進型に変わってこの機関車の写真がまず登場することが多く、ファンならずとも雑誌やテレビなどで目にした人は多いと思います.最近では海抜5000m以上の高地を走り、チベットのラサに通じる青蔵鉄道の試運転シーンでも登場していました.逆に言えばこの面白おかしくもない機関車が代表してしまうことで、 中国の鉄道は面白くない、と思われる方が多いのも事実でしょう.前に書いた「くそグリーンで屋根が深く、豆腐屋さんのラッパのような警笛を鳴らすつまらん機関車」とはまさに東風4を表す、とも言えます.

1988年5月、京包線八達例を下る普通列車です.

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このシリーズを熱心に見て頂いている中国鉄道ファンの方はそんなことは無いかもしれませんが、前回の北京型もネイビーグリーン塗装の時代は、全長が少し短いだけでよく似ていて、あまり興味がないと同じに見えるかも知れません.(実は私も最初はそうでした)

東風4はエンジンや性能の違いでA、B、C、D型と進化していて、その後に登場した東風8東風9東風11も進化の延長上にあると考えられ、さらにはNZJ2神州型という気動車タイプの列車の動力車も外見は違っても中身は同系列です.
本気でまとめれば、本が一冊くらいは書けてしまうような複雑な分類や装備があるようで、私自身もまったくその全貌は掴んでいませんから詳しい解説は不可能です.シリーズの表題は80年代の〜ということですからその時代に存在したA型B型ひっくるめて東風4としてご紹介します.
1984年10月、北京豊台西操車場です.

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軸配置C-C、電気式、エンジン A形16 240ZA型 B型16 240ZB型(3600ps/1100r.p.m.)、全長20.3m、重量138t.最高速度120km/h(旅客用)、100km/h(貨物用)

外観は良心的に見ればドイツ型の流れをくみ、20mのボディは実際目にするとかなりの迫力です.エンジンはアメリカのアルコ社、スイスのズルツァー社の技術が使われています.最初は大連工場で作られましたが、蒸気機関車製造終了後の大同工場でも1980年代末から製造開始、その後はさらに別の工場でも手がけているようです.

1984年10月、大連工場で完成直前のまだ帯が入れられる前の姿です.帯の太さや前面の中国国鉄マークは、時代によって少しずつ差異が見られます.

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現在ももちろん各地で活躍中ですが、初期車はすでに40年の経年を経ています.また砂漠や高所、寒冷地など過酷な条件での酷使もたたって、同型や新型への代替えも急ピッチで行われています.

全13回+番外編2回のシリーズで連載してきましたが今回の東風4で終了です.また中国鉄道の話題は時々出てくると思いますので、お楽しみに.途中、あまりの反応の無さにめげかけましたが何人かの方に励ましのお言葉を頂き、無事完結できました.
結構な量になってしまいましたが、近いうちに再構成して本編にアップしたいと思います.
どうもご覧頂きありがとうございました.


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2006/02/09 AM 12:40:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | [80年代の中国DL]

No.207 80年代中国DL[12]
第12回は北京型(BJ)です.

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上は1984年4月、北京機関区です.
液体式旅客用の北京型は1969年にまず3000番台2両(3001・3002)、6000番台1両(6001)が試作されました.液体式ならば本来東方紅になるはずですが、その頃はまだシリーズ化が始まる前で、北京二七工場で作られたため北京型と命名されたようです.正面には北京の文字と天安門がデザインされています.
6001号機は3000番台を2両併せたようなダブルエンジンのB-B+B-B、1車体ダブルボギーの大型機でしたが、やはり大き過ぎたのか試作だけに終わりました.
1975年から3000番台の量産が始まり、1991年までに3000番台346両、口岸型(不明)12両、ロシアゲージ (ロシアとの国境区間で使用)4両、片運転台2000番台8両が製造されています.
軸配置B-B、液体式、エンジン 12 240Z型(2700ps/1100r.p.m.)、全長16.3m、重量92t.最高速度120km/h.
こちらは同じく1984年4月、北京機関区での試作3002号機です.当初はこのようにネイビーグリーン塗装でしたが1984年頃から順次青色塗装に変更されています.この青も上の3174号機のように鮮やかなのと以下の写真のようにもう少し濃い目のものが存在するようです.(塗り立てだけ鮮やかなのかも知れませんが)

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1980年代は京局京段(北京機関区)を基地に、各地へ向かう優等列車や近郊のローカル旅客を牽引していました.
1988年1月北京郊外、霧の中を行くはるばる広州からの20両編成、長〜い特快列車です.

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腰部のライトですが、3灯しか点いてません.球切れかな?と思ったのですが、他の列車でも同じでした.なんと左から2番目のライトは通常のヘッドライトではなく、標識灯のようです.

旅客専門と思っていましたが1988年5月に天津北駅で見た貨物列車です.左から2番目のライトが違うのが判りますね.

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1988年5月北京駅.2003+2004号機の牽引する「京滬直達特快」上海行です.前回の[番外編2]の牽引機はこれでした.重連型片運転台2000番台は当時登場したばかりで、まったくその存在を知らず、初めて見たときはビックリしました.20両編成の当時の最上級列車を牽引するに相応しい迫力です.このまま上海までロングランとは行かず、徐州で上海局の機関車(東風4)と運転停車して交換していたようです.

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現在も北京を基地に旅客列車に活躍しているようですが、電化や新型機の登場で地方への転属、貨物列車や入換などにも使われています.

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2006/02/07 AM 12:29:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [80年代の中国DL]

No.206 80年代中国DL[番外2]
残るはあと2形式なんですが、ちょっと今日は客車の話を.

1988年当時は北京、上海間を結ぶ京滬直達特快列車が2往復走っていました.
言葉の説明をしますと、「京滬」というのは京=北京、滬=上海(の旧名).「直達」はノンストップ.「特快」は2つ以上の鉄道管理局管内を跨いで走る特急列車のことです.ノンストップとはいっても客扱いはしない、という意味で途中、何ヶ所かで運転停車をして機関車交換をします.
この列車は当時の標準客車であるYZ22系客車のリニューアル車20両編成を使用していて、赤・クリーム編成と青・白編成が存在していました.

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完全冷房編成、というのは当時ではあまり見られず、中国国内ではグレードの高い人気列車でした.
この客車はYW22型硬臥車、日本でいえばB寝台車にあたります. 

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こちらはYZ22型硬座車、普通座席指定車です.

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その他にも軟臥車(A寝台車)、餐車(食堂車)、行李車(荷物車)なども連結されています.
ところで屋根上に載っている冷房機ですが、車端型と中央型があります.あらためて見ると、あれれーっ!何処かで見たことがありますね〜.

そんな某国製冷房機器を搭載した客車を連ねた京滬直達特快列車が長途、約1600km彼方の上海目指し北京駅を出発して行きます.

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「先頭の機関車は何?」という疑問が出るかとも思いますが、それはシリーズ次回をお楽しみに.

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2006/02/04 PM 06:24:06 | Comment(3) | TrackBack(0) | [80年代の中国DL]

No.205 80年代中国DL[11]
第11回はND2です.

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ND2はルーマニアのElectroputere社の製造で、ルーマニア国鉄の060DA型がプロトタイプですが、設計はスイスのズルツァー&SLM社のライセンスです.外観はいわゆるスイスロコの体をなしていて、低床型のボディや天地逆向きのリーススプリングなどにその特徴をうかがうことが出来ます.最初の数両だけスイスの電気機関車そっくりの面長のフロントマスクを持っていましたが、その後の増備機は、中国タイプとでもいえるようなおっとりとしたマスクになってしまいました.
1983年4月に初めて中国で乗車した列車がND2の牽引で、私が初めて見た中国の機関車でもあります.上の写真はその訪中の時、南京長江大橋の内部に特別に入れて頂いて撮影したものです.
コンパクトな車体ですが床下に6軸の動輪がきれいに収まっていますね.スペックの割にはなかなか力持ちで、20両編成の特快列車も軽々と100km/h以上で牽引していました.

軸配置C-C、電気式、エンジン ズルツァー Sulzer 12LDA 28B型(2000ps/850r.p.m.)、全長17m、重量120t.最高速度120km/h.

この写真はやはり1983年4月、南京郊外京滬線の客車列車です.

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1972年から1987年にかけて284両が輸入され、当初は上海、南京、杭州など華中地区の旅客列車に集中的に運用されました.その後は他のディーゼル機の配転や蒸気機関車の置き換えなどで南下し、広州から香港九広鉄道乗り入れや、海南島へも進出しています.
現在は国産機への統一が図られていて、海南島のほか長沙、上海地区で僅かに見ることができるだけのようです.他地区で最近の目撃例があればご教示下さい.

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2006/02/03 AM 10:37:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | [80年代の中国DL]

No.204 80年代中国DL[10]
第10回はNY7です.

NY6 と同じく1972年から導入された西ドイツ(当時)ヘンシェル社製、液体式の旅客用機関車で車体自体は全く同じ、機番もNY6が0001-0010なのに対し、0011-0030と連番です.ではどこが違うのかというとエンジンがベンツ製からマン製、いわゆるMAN POWERに変わっています.出力はこちらの方が大きくて、一基あたり2500ps.機関車としては5000psのビッグパワーです.
最終的にNY6が10両、NY7が20両が輸入されています.(さらに試作車のNY5が4両) 西ドイツが何故共産圏の中国に優秀な機関車を輸出したか、何故エンジンを2社に分けたかというのは西ドイツ国内の政治的な問題が絡んでくるでしょうし、1967年に発足の欧州共同体ECの影響も大きいと思います.中国への機関車輸出(援助)は政治抜きにしては語れない部分があるでしょうね.
ヘンシェル機は使用開始から数年間は使いこなせず、故障休車機が多かった時代もあると聞いています.1984年に北京機関区を訪問したときには、庫の中に多数の西ドイツと書いてある未開封の木箱が積んでありましたが修理部品だったのでしょうか.

軸配置C-C、エンジン 2×マンMAN12 V 956型(2×2500ps/1500r.p.m.)、全長23.6m、重量138t.最高速度120km/h以上となっています.エンジンの型式を見るとNY6は16気筒、NY7は12気筒のようですね.

同じ京局京段(北京機関区)に所属はしていても6型とは共通運用ではなく、7型の方はもっぱら大同、包頭方面の京包線で活躍していました.京包線では北京郊外の万里の長城観光で有名な八達嶺の急勾配を越えるため、全部の列車がNY7同士、または北京型と重連を組んで33‰に挑む迫力シーンが見られました.
下の写真は1988年9月北京駅、包頭行きの直快列車牽引のNY7重連です.大同国際蒸気機関車大会に出席するためにこの列車に乗車しました.

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2両併せて10000馬力で八達嶺の33‰に挑みますが、速度は30km/hほどまで落ちてしまいます.はたして全力を出し切っていたのかは疑問です.この列車を外から見ていると過給器(ターボチャージャー)のキーンというつんざくような高音が凄まじく、脳天に響きます.撮影1984年10月.

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1984年5月、北京型と重連で八達嶺を越える姿です.全長16.3mの北京型に較べて親子のようなNY7は客車とほぼ同じ23.6mの全長を持ちます.これでも北京型の方が本務機で、次のスイッチバックの青龍橋駅では北京型が編成反対側に付き、NY7は切り離されます.

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NY7は数年前までモスクワ、モンゴル方面への国際列車のモンゴル国境二連までの区間をロングランしていましたが、現在は置き換えられたということです.長年国際列車を牽引、ということはそれだけパワーと信頼性があったんですね.
残念なのはいつもピカピカに磨かれていたNY6に較べてNY7は塗装面の痛みの多いクルマが多く、侘びしい気がしました.同じ機関区なのにどういうことでしたか.

北京駅では不正乗車防止のため入場券による入場を厳しく制限していました.撮影のためだけの入場は難しく、列車に乗車の場合でも外国人の場合は、出発ギリギリに案内されるためのんびり撮影している時間が無くて大変でした.改札口はホーム毎にあるために隣のホームから撮影、というのもまず不可能、日本国内で自由に撮影するのとはだいぶ勝手が違いました.

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2006/02/01 AM 02:18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | [80年代の中国DL]










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