【安楽鉄道趣味】轍楽之路 Weblog by 寺田牧夫
轍楽之路(てつがくのみち)主宰の寺田牧夫(田駄雄作)が鉄道趣味、旅、写真の話題を中心に私の興味あるジャンルの話や諸事彩々、私のお気楽に写真とともに、脈絡もなく、気ままに、無責任に綴りおきます. 話のタネや酒の肴としておひつまぶしにお付き合い下さい.  同調、訂正、苦情、提案、罵倒などのコメントや掲示板への書き込みお待ちしています. (1ページに最新5つの記事が表示されます.Archives、カレンダーから過去の記事もご覧下さい.) ※各画像への直リンクや営利非営利とも2次使用はご遠慮下さい.(発見された場合はご通報をお願いします)※
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No.31 南浦和駅
生まれも育ちも、と言いますが鉄道を趣味に持ち続ける人間には生まれた場所、育った場所というのは大きなファクターでしょう.例えば鉄道の無い(無かった、というか)沖縄出身の方には、やはり"鉄"は少ないだろうと思います.沖縄の書店では鉄道関係の書籍、雑誌はほとんど扱っていない、というのもうなずけます.
私の場合は、埼玉県浦和市で10歳まで育ち、その後東京の保谷に転居したという歴史があります.(どちらも現在は行政名が変わっていますが) 浦和ではよく駅まで行って列車を眺めていましたし、保谷では西武の保谷検車区、上石神井検車区、国鉄の三鷹電車区.吉祥寺の歌川模型、中央模型、西荻窪のニットー教材などが自転車での行動範囲でした.たまには朝霞駅へ東武東上線を見に行くこともありました.
小学生の私が"鉄"を続ける下地は充分あったんですね.

表題の南浦和ですが、ちょうど保谷に転居する頃に広大な浦和電車区とともに南浦和駅が開業しています.浦和には両親の実家があり、その後も頻繁に行っていましたので、浦和・南浦和付近で撮影のネガが残っています.
ネットで他のサイトを覗くと浦和、蕨、川口付近のご出身で、昔から撮られている方が多いのに驚きました.また本島三郎さんをはじめ、ベテランのファンの方も多く住んで居られたようです.鉄道の街、大宮に近く、東北本線、高崎線の大幹線には各種の列車が頻繁に走ります. "鉄"を育む土壌としては最高の肥沃な大地だったのでしょうね.

↓は1964(昭和39)年12月の南浦和駅.「とき」はまだ161系です.

2005/07/31 PM 04:18:35 | [浦和/大宮付近]

No.30 コム1形コンテナ車

この貨車はコム1形コンテナ車です.コンテナ2個積み2軸車、小型の北海道内専用形式ですので、実物を見たことのある人は限られると思いますが、Nゲージの模型では少しは知られているのではないでしょうか.まさに鉄道模型入門の貨車としてはうってつけの大きさ、スタイルですね.
でもこの写真、車体番号をよく見るとトム154731と書いてあります.コム1形はトム50000形の改造車ですので、撮影時にはまだ改番されていなかったようです.トム50000形でも2段リンク未改造車は数字の頭にが付きます.これゆえに最高時速65km/hの道内専用車という訳です.

道内専用車は石炭車セキなどが有名ですが、[道外禁止] の注記と黄色の帯が目立ちます.この貨車もコンテナ下、床板のサイドが黄色に塗られているようです.

左側には[新札幌駅常備]との表記もあります.もちろん今の相対ホーム2線しかない高架の新札幌駅ではなく、札幌貨物ターミナル駅の旧名です.

撮影は1969年8月室蘭本線苫小牧駅です.よくこんな貨車の写真まで撮っている、と思われるでしょうが、たまたま苫小牧機関区でD51やC11を撮影中、横の側線に停まっていたところを気まぐれにパチリとやったものでしょう.

2005/07/30 PM 04:07:49 | [客車・貨車]

No.29 C55とイヌワシ


宗谷本線兜沼駅を出発するC5550牽引の324列車を200mmレンズで狙っていると、上空に2羽のワシがジャストタイミングで飛来しました.まるでC55を俯瞰いや、鳥瞰撮影でもしているように併走しながら戯れています.そして最後は2羽でポーズを決めてくれた後に飛び去って行きました.いやー、こんなシーン狙って撮れるもんじゃないですから、朝からついてましたね.
鳥に詳しい友人に写真を見せると、これはイヌワシだろうとのことです.結構好奇心が旺盛なようで、煙を上げる汽車を見に来たのかも知れません.
撮影は1974年8月です.

イヌワシといえばゴールデン・イーグル.仙台のイヌワシチームはもう少し頑張って欲しいですね.MLBの野茂も、新天地ヤンキースでもう一花咲かせることを期待します.ガンバレ〜!


2005/07/29 AM 12:05:03 | [現役蒸機の時代]

No.28 中国国鉄6K形電気機関車
1987年9月19日、当時所属していた日中鉄道交流協会の行事で、川崎重工兵庫工場で製作中の6K形電気機関車の見学に出かけました.午前中は大阪市内で所要があったので、往路は「銀河」、復路は最終「ひかり」の夜行日帰りの旅です.
ご存知の方は多いと思いますが、川重兵庫工場は構内を一般道の踏切が通り抜けていて、許可を得なくても工場内を垣間見ることができます.ただカメラを向けると守衛さんに静止されてしまうのですが.
当日はもちろん正式な見学なので堂々と入れます.ただし撮影は6K形完成車のみ、と釘をさされていました.工場内では小田急の10000系と1000系が製作中だった以外は6K形一色.それもそのはず、1987年から1988年にかけてこの川重で85両も製造(電気品は三菱電機製)されて中国に向けて船積みされています.完成車置き場には20両以上が並んでいて壮観です.

6K 形は重量136t、出力4,800kW、車軸配置B-B-Bの交流用大型電気機関車で全長は22.2mもあります.現在まで完成車として輸出された日本製の機関車は6K形だけです.
全機が洛陽機務段(機関区)に配属され、龍海線の貨物列車牽引に活躍していますので、現地でその活躍をご覧になった方も居られると思います.

2005/07/28 PM 06:50:53 | [中国の鉄道]

No.27 三菱大夕張鉄道と私
今なら時刻表に掲載されているJR線や私鉄線にはどのような車両が走っているかは大体判ります.それは趣味誌で紹介されていたり、ネット上で即座に検索できたりするためですし、また変な?車両の走っている地方私鉄もほとんど無くなってしまった所為でもあります.中学高校の頃は列車の姿が想像できない鉄道が各所にあり、たまに「鉄道ピクトリアル別冊私鉄車両めぐり」、などでその一端に触れるのが楽しみでした.
北海道の三菱大夕張鉄道も、時刻表を見た限りでは列車の姿が皆目見えてきません.9200形が所属しているということ以外、旅客列車を含む列車写真は雑誌上でも(私は)お目にかかったことがありませんでした.確か時刻表に書いてあった(と思うのですが)全列車蒸気機関車牽引という文字にその思いを馳せていた反面、私鉄と蒸気機関車という言葉のミスマッチに内心葛藤もしていました.
ところが1968年1月号の鉄道ファン誌のフォトサロンに目を奪われました.「夕張の冬」と題する庄野鉄司さん撮影の見開きの作品が2点です.1点は夕張鉄道錦沢のスイッチバックを行く96の貨物列車.もう1点が三菱大夕張鉄道のシューパロ湖畔を黒煙を上げて登る96形[NO.4]のセキ編成でした.
これが私と大夕張との出会いです.この作品を見ていなければ、数年後に訪問を重ねることは無かったかと思います.写真の迫力に加え[NO.4]と書かれたナンバープレート、そしてシューパロ湖という優しさの中に厳しさを持つ言葉の響きに惹かれてしまい、「これは絶対に行かなければ」と即座に決心したものです.
待つこと1年と数ヶ月、受験を終えた1969年3月に大夕張を訪れました.真っ白に凍結したシューパロ湖畔の現地に立った私の足が震えていたのは、寒さのためだけでは無かったと思います.
その後は渡道するたびに大夕張に足を向け、その成果は当サイト三菱大夕張鉄道GALLERYでご覧頂いている通りです.1971年には鉄道ジャーナル別冊「旅と鉄道」創刊号に「炭鉱(やま)の老兵」と題するフォト・ルポルタージュも発表させて頂いています.(その後2回別冊に再掲載)

そのようなご縁で現在も三菱大夕張鉄道保存会に所属して、当時の写真の提供などをさせて頂いています.現在、10月31日まで夕張市の石炭の歴史村SL館で「三菱大夕張鉄道展」を開催中です.私の写真も展示されていますので、渡道なされる方はぜひお立ち寄りください.また同市南部の旧南大夕張駅跡にはラッセル車、客車、石炭車などが復元(中です)展示されています.こちらも併せてご訪問頂けると幸いです.
長くなりますが、も一つ後日談があります.当サイトに三菱大夕張鉄道GALLERYをアップしたのは今から3年ほど前になりますが、その際に庄野鉄司さんから突然、掲示板にコメントを頂きました.前述のように、私が三菱大夕張鉄道の写真を撮り出したきっかけの作品の作者さんからですから、これほど嬉しいことはありませんでした.(庄野さん、お名前を出して失礼致しました)

2005/07/27 PM 09:21:55 | [大夕張鉄道・夕張鉄道]

No.26 成田線電化祝賀列車は165系

(画像をクリックすると拡大されます)

毎日拙文にお付き合い頂きありがとうございます.「これからず〜っと続けるのなら最初から突っ走らない方が良いよ.」なんてアドバイスも頂きましたが、気分屋なのですぐ書かないと、その時のノリの気持ちを忘れてしまいます.ネタを暖めておいたり、先のテーマを決めておく、というように器用なことができないのです.確かに連日暴走気味ではありますが、これからも出来る限り、毎日行き当たりバッタリ、ケ・セラセラと参る所存です.あらためて、よろしくお願いいたします.

行き当たりバッタリ、といえばNo.21のときと同じく1973年9月、クルマで出張中でのバッタリ遭遇です.
成田線の木下(きおろし)駅前を通りかかると、やけに多くの人々が駅舎内やホームに溢れそうになっています.そして紅白の幕に「祝・成田線電化完成」なる幟(のぼり)まで.
成田線我孫子-成田間の電化は知っていましたが、ちょうどその祝賀式典に遭遇してしまったようです.しかもホームの様子では祝賀電車がやって来そうな雰囲気!これは仕事どころ?(何の仕事やねん)ではありません.電化後は常磐線の103系や千葉の旧国なんかが走るはずですが、さて何型が来るか、と期待していると我孫子方から前後に祝賀マークを付けた165系3両編成が到着.まあ妥当なところでしょうか.
ここまで駅の前を偶然(本当です)通りかかってから10数分、というところでまさにドンピシャリの遭遇でした.
そのまま式典を見ていても面白くないので、先回りして走行を狙います.次の仕事の目的地は成田市内なのでほとんど寄り道にもなりません.
わざわざ出かけるほどのことは無いようなものでも、 このような出会いはうれしいもので、鉄っちゃん冥利に尽きるとでもいいましょうか.

↓は安食-下総松崎間での撮影です.

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2005/07/26 AM 10:38:58 | [電車・気動車]

No.25 最後のロクサン
太平洋戦争終戦直前から、戦後復興期に大量に生産増備されたモハ63形(通称ロクサン形)ですが、車両火災で多数の死者を出した桜木町事件(1951年4月24日)の発生により、そのあまりにも簡略化された車体構造が一般にも知られて、欠陥電車として大きな社会問題になってしまいました.
その反省から、電装品の漏電触電対策や、乗客の緊急脱出を可能にするための窓やドア、貫通路の改良などが1953年までに速やかに施工され、63形はモハ72、モハ(→クモハ)73、クハ79、サハ78形のモハ72系電車へと生まれ変わりました.
ただ1両、モハ63019のみは、1949年7月15日に起きた三鷹事件の証拠物件として、地検からの保全命令により三鷹電車区に車体のみボロボロの状態で保管され、モハ63としての車籍が生き続けていたのです.
正式に廃車になり、モハ63形が消滅したのは、保全命令が解除になった1963年12月になります.
ひどい写真ですが、私が小学校6年(1962年)頃に三鷹電車区で撮影したそのモハ63019です.

現在、三鷹電車区には1988年の東中野追突事故の生き証人としてクハ201-3が保管されています.そしてこれが現存する唯一のカナリア色の201系です.まさに歴史は繰り返す、ということでしょうか.

2005/07/25 PM 07:45:44 | [電車・気動車]

No.24 高麗川駅の信号機

昨日と同じく2枚の写真でご覧下さい.場所は日高つながりで八高線高麗川駅.どこがつながりやねん!と言われそうですが、高麗川駅は埼玉県日高市にあるのでした.
22日に103系を撮影に行ったとき、高崎方に出発信号機が7機もあるのを発見、カメラに収めました.
昔蒸気機関車が走っていた頃は、同じように腕木式信号機が並んでいたような記憶があります.しかし、その写真を撮影していたかどうかは覚えていませんでした.
先ほど思い立って探してみるとホーム反対側からですが、かろうじて1カットを発見、スキャンしてみました.おおよそ同じ範囲をトリミングして比較すると手前の1つが足りませんが、ほぼ同じ場所に腕木式信号機が建っています.構内配線もセメント工場線が無くなったとはいえ、あまり変わっていないようです.貨物列車の廃止で巨大な照明灯と信号扱い所が消えていますね.
この写真は1967年6月4日撮影と珍しくもネガカバーに日付が書いてあります.上の写真との時間差は38年ということになりますが、昨日のNo.23の祖父の大正時代の写真と、私の撮った写真との時間差46年と較べても遜色ないとは! 結構ショックです.

全国どこでも見られた腕木式信号機も先月2005年6月に八戸線階上、陸中八木駅で廃止になり、JR線上からすべて消えてしまいました.
この腕木式信号機、夜間や霧などの場合は視認性が悪いので、後部に付いた赤と青のフィルターを通したランプの色で確認します.じゃあ、昼間もそれだけでいいじゃない、なんて思ったこと無いですか?

↓その夜間に出発する川越線の9600牽引の貨物列車.前後の照明灯で腕木が程良く浮かび上がっている.実は川越線96最後の夜です.1969.9.30

2005/07/24 PM 01:29:18 | [信号機]

No.23 2枚の写真、日高とジャワ島
左の2枚の写真ですが、いずれも本編で公開済みのものですが、あらためてご覧下さい.

上は私の写真で日高本線の三石川鉄橋で撮影したC11重連の貨物列車です.1970年の3月ですが、この列車を捉えるべくマミヤを構えている前に道産子の牽いた馬車が現れて、お爺さんと若者が積んできた干し草を降ろし始めました.こりゃあいい!ということでカメラを手持ちに換えて、今まで鉄橋に合わせていたピンを道産子とお爺さんに合焦させて列車が来るのを待ちます.めったに走らない重連、しかも今日はC11207+C11206の二つ目同士の重連と判っていたのですが、この絶好の被写体を前ボケにすることは、風景カメラマンとしてはできませんでした.(マミヤレンズの前ボケは避けたかったこともあります)
このロケーションの中に重連がやってきました.鉄橋を渡る音に道産子がそちらを向いているのがお判りでしょうか?お爺さんはまったく気にせずに馬の器具を調節しています.

時は46年ほどさかのぼって下の写真です.1923年(大正12年)、場所は当時はオランダ領だったジャワ島、現在のインドネシアになります.
川で洗濯?をしている親子がいます.いやお婆さんと孫かも知れません.後方にはやはり鉄橋があり、逆向きのタンク機関車牽引のボギー車、2軸車混成客車列車が通過しています.この写真は組立式暗箱+名刺サイズのフィルムで撮られたものですが、当時のことですから感度は相当低かったものと思います.ですから絞り込むことも出来ず、ピンは手前に合わせています.
この時のネガがまだ数枚ありますが、列車が来る前のそれらのカットの構図はもっと右側に振っていて、鉄橋をまともに捉えています.ピンもそちらに合っていますので、おそらく鉄橋で列車を撮ろうと構えていた処に、この二人が現れたために方針を変更したものと思います.子供は汽車を見ていますが、お婆さんは洗濯に没頭していますね.

あれま、ほとんどく同じシチュエーションだ! 写真も何となく似ていますし、お爺さんとお婆さんの顔つきも同じように見えます.

この写真を撮影したのは私の母方の祖父、藤栄弥太郎です.祖父について書くと長くなりますので、いずれまた触れたいと思います.
ひとつだけ、祖父は鉄道ファンでは無かったようですが、カメラマニアだったのかもしれません.
しかし私の知っている祖父はハーフサイズ以外のカメラを持つのを見たことがありませんし、私が鉄道の写真を撮っていることを話しても、当時の話しをすることは一切ありませんでした.このネガは祖父が亡くなった後に発見されたものです.もちろん私が日高線の写真を撮影した後です.

大正12年といえば関東大震災の年ですね.今日7月23日、関東地方で大きな地震がありました.思わず本棚とテレビを押さえてしまいましたが、私は10年前の阪神大震災を大阪で経験しています.2度とあのような思いはしたくありません.今日はあの朝のことを思い出して少し恐ろしかったです.

なんとか日付が変わる前に書き終わりました.

2005/07/23 PM 11:49:34 | [祖父の写真]

No.22 103系ハエ53編成とネットの力

昨日、川越電車区のハエ53編成が八高線川越線(八王子-川越)で奇跡の復活を遂げて運用されている、というニュースがネット上で飛び交いました.まあ予備車ということだったので、奇跡の復活とは多少オーバーな表現ですが、5月15日以来2ヶ月以上走っていなかったのでこれはもう、いつ廃車回送されてもおかしくない状態ではあったはずです.事実廃車回送の誤報まで流れました.

ハエ53編成は103系の3000番代最後の編成で、首都圏の他の路線でも現在風前の灯火(ともしび)の103系の一族ではあるけれど、ちょと違います.
もとを正せば1954-56年製の旧型国電、モハ72系の下回りと台枠を使い、車体の上側だけを当時山手線などで増備の続いていた103系と同じもので作りかえて、モハ72系アコモ改造車として東北の仙石線で走らせていました.その後仙石線が本物の103系に置き換えられたときに、今度は台枠以外の台車や制御機器などを103系のものと取り換えて、ちょうど電化された川越線の川越-高麗川間用として投入されました.ニセ103系が本物の103系になってしまった訳ですが、前述の通り台枠だけは古いまま現在まで残っています.ですからこのハエ53編成の車両には[昭和31年]の銘板が今でも付いてるんです.(写真左)

前書きが長くなりましたが、そんなニュースを知ればぜひ行ってみたい、と思うのが鉄っちゃんの人情というものです.八高線、川越線は蒸気機関車の時代から30年以上も見てきた路線です.幸い今日の午後なら時間が取れます.でも当てずっぽうに行っても1編成しか走っていませんから八王子-川越間のどこで出会うか判りません.それを写真に撮ったり、乗ったりするとなれば大変効率の悪いものになります.
そこで当サイトと相互リンクをしている、JR八高線専門のホームページ樋口工業舎の掲示板に「運用時間を教えてください」と書き込むと、朝から夜までの八王子、川越の発着時間が管理人のやっちんさんによってレスされ、同時にご丁寧にメールまで頂きました.
おかげさまで、無事に写真も撮れて、乗車もすることができました.まだお会いしたことも無いやっちんさんに感謝するとともに、ネットの力というものを実感いたしました.そもそもこの情報自体がネットで得られたものなんですからね.

ハエ53編成はまだ正式に引退したわけではありませんので、再度走る可能性もあります.もう走らないかも知れません.でも私にとって最後に良い想い出を作らせて頂きました.

※本日の成果は明日(23日)か明後日に本編の方にアップするつもりです.
↓川越線武蔵高萩駅


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2005/07/22 PM 11:33:11 | [電車・気動車]

No.21 D511
蒸気機関車トップナンバーの想い出、とは言っても実際にその現役で活躍する姿に出会ったことがあるのはC551、C571、C581、C601、D511くらいなものです.(これは有火状態で撮影できた、ということに限定します.車窓からチョイ見や休車、廃車、保存機は別です) な〜んだ、C60以外は全部梅小路の機関車じゃないですか.
特定のナンバー機に出会えるチャンス、というのはイベントじゃない限り運だけですから、私の年齢から言えば結構多いのかも知れません.その出会いシーンを各機別に時おり回想してみたいと思います.

トップバッターはやはりD511を登場させましょう.
初対面は1966年8月、場所は盛岡機関区です.同じ時にC601も見てるのですが、この時は休車中でした.D511も庫の中に入っていて、その全貌は撮影できなかったのですが、その時の正面から撮った写真を見ると、小さい電球を3つ内蔵している変形ヘッドライトを付けています.これは試作的なものらしく、すぐ外されてしまったので資料的には貴重なカットになりました.(写真左上)
2度目の出会いは、翌年1967年12月の東北本線奥中山です.雪の中、この超有名な場所で撮影していると、ここでは珍しい前1後1の2機で登ってきた貨物列車の後補機がD511でした.東北本線で走行中を撮影したのはこの時だけですが、意外な出会い方でしたね.(写真左中)
その後は奥羽本線での例のNHK新日本紀行「三重連の峠」イベントで、何回も何回もD511は矢立峠を往復してくれましたので、その時の印象が強烈です.あれは忘れもしません1970年8月30日.あの日は暑かった〜! (写真下)

その後のD511は梅小路開館までを山陰本線浜田機関区で過ごしました.その姿は雑誌で見るばかりでしたが、確か4重連のイベント列車の先頭に立ったことがありましたね.

最後にこんな出会いがありました. 梅小路での動態保存が始まっていたので、もう現役ではありませんでしたが.1973年の秋に当時勤務していた会社の仕事で、上司を乗せて国道18号を長野市から高田方面へクルマを走らせていた時です.「昔はこの信越本線もD51が走っていたんですよ」なんて会話をしながら牟礼駅横を通過しようとすると、なっなんと、駅から煙が上がっているじゃないですか.仕事中だということも忘れて、上司の許可も得ず(暗黙の了解?)ハンドルを左に切りました.そこには長野工場で全検を受けたばかりで、ピッカピカのD511の姿がありました.予期せぬ形での再会ですから、感激もひとしおです.意外だったのは、同乗の上司が私よりも先にクルマから飛び降りてD511にカメラを向けていたことです.(写真左下)

今は梅小路で静態保存中ですが、峠を登る勇姿(できればD51200D51498を従え3重連で)に、感動の再会をしたいものです.

2005/07/21 PM 08:02:11 | [Top number]

No.20 高田馬場
今日の交通新聞によると、東京メトロ東西線と西武新宿線の直通運転の構想が浮上したとのことです.これは沿線住民の永年の悲願だったとでも言うべきものでしょう.
昔は西武新宿線の沿線に住んでいましたから高田馬場での乗換えは良く利用しました.西武線からだと階段を下りて改札を抜け、牛乳屋さんの横の階段をさらに下ります.この階段にはトマソンで有名になった高田馬場トライアングルがあったのも懐かしい話です.(意味の判らない方は読み飛ばしてください)そして地下鉄の改札を入るとまた階段を下りて、やっと東西線のホームです.
今は改良されて、階段も増えて広く明るくなっていますが、昔はそのすべてが狭くて暗くて、夏は人いきれと5000系電車の抵抗器の熱でムンムンしていました.ラッシュ時には人が詰まってしまい、乗換えに15分もかかるときがあり、仕事前、ここでの体力消耗は本当に応えました.
帰りは帰りで高田馬場から西武線を利用するとまず座れません.西武新宿まで折り返し乗車することも度々でしたが、これは時間の無駄というものです.

西武新宿線の改良と言えば、国鉄新宿駅への乗り入れ構想がありました.今はマイシティになっている新宿ターミナルビルの3階部分は当初西武線の駅が出来る予定で、現在は待ち合わせで有名な交番前のところから見上げると、ビル壁面に2つの四角い穴が空いていたことを、覚えている人も多いと思います.しかしこれは、6両編成で2線分のスペースしか無かったために、キャパ不足で実現しませんでした.
つい最近では上石神井-高田馬場-西武新宿間の地下トンネルによる複々線化計画があり、これは実現一歩手前まで行きましたが、新宿線の乗客数が横ばい状態になってしまったことや、地下水位の上昇に伴う工費の増加、途中に駅を設けないために、非常時の救援体制やその警察や消防の所轄の問題などの理由でこれも中止になってしまったようです.
西武新宿線の乗客数が伸び悩んでいるのは、この東京側のターミナルの不便さと無関係じゃ無いですね.
さて今回の構想、3度目の正直となるか、2度あることは3度あるになるか.どうなりますことやら.

交通新聞の記事では、日本橋、大手町方面からの直通特急の運転も考えられるとのこと.小田急と千代田線で計画されているようなことも実現するかも、です.
いっそのこと建設中の13号線にも繋げはったら、たいそう便利になると思うんやけど.

東西線は1964年12月も押し詰まってから、九段下-高田馬場間がまず開通しました.写真はその当日か翌日だと思いますが、高田馬場駅で折り返し停車する5000系は3両編成でした.
写っているのは今でも友人の"てつんば君"です.

2005/07/20 PM 09:12:17 | [地下鉄]

No.19 ドーバー近くのサドルタンク
1976年9月〜10月の欧州取材旅行もいよいよ最後の行程.パリ→2連のDC特急→SEA LINKの巨大ホバークラフト(左写真)と乗り継いでイギリスのドーバーへ上陸しました.イギリスへ来たのは撮影のためでは無く、単に翌日の帰国フライトにヒースローから搭乗する、というだけの理由です.若干厳しい入国審査を通過した後、おそらくドーバーの街のメインでは無いと思われる小さな駅(港駅?)からロンドン行きに乗車しました.

第3レール集電の見た目は地下鉄みたいな電車ですが、車内はボックスシートでした.この電車のドアは手動式ですが、車内には開閉ノブがありません.どうやって開けるかというと、まずドアにある下降式の窓を下げて開けます.そして外にあるノブを手を出して回して開ける、という原始的というか変なやり方です.ロンドンでは日本のマッチ箱客車のような、各コンパートメント毎にドアがある.つまり側面にはドアがズラズラズラと並んでいる(決して古くない)電車も見かけました.イギリスの電車にはちょっとしたカルチャーショックを受けました.

ドーバーを出て10分ほど走った時に、なんと蒸機らしき煙が見えたんです.イギリスで、しかもロンドン近郊とでも言える場所ですから、まさか現役の蒸気機関車が走っている、と考えるわけはありません.一瞬保存鉄道かとも思いました.
しかしそのまさか、です.本線脇の大きな工場のヤードで貨車を連結して煙を上げていたのは、鮮やかなブルーに塗られたサドルタンク.キツネにつままれたような気分でシャッターを2度ほど切りました.

果たしてあの機関車は何だったんだろう?と思うまま30年近く経ってしまったのですが、先日思いついて、その写真をスキャン、そしてネットで調べて見ました.
サドルタンクには大きく
NATIONAL COAL BOARD
SOUTH EASTERN DIVISION No.9

と書いてあります.やはり石炭関係の工場ですね.そのまま打込むと容易に検索できました.Stephenson & Hawthorn社製で製番 7097、 1943年製ということです.この翌年くらいまでこの工場で働き、現在は保存鉄道で走っているようです.
サドルタンクでインサイドシリンダー、正面に顔を付ければ機関車トーマスにまんま出てきそうな機関車です.

この旅では各地で多くの蒸気機関車達に出会えました.そしてたった1日半の滞在、最後のイギリスでも車窓からとはいえ、しっかり現役蒸機を見ることができたのですから、これは良い打ち止め撮影となりました.




2005/07/19 AM 01:22:48 | [ヨーロッパ]

No.18 国分寺駅のED779
中学高校は国立(くにたち)の学校へ通っていたことは何度も書いていますが、毎日通学時に西武線から中央線に乗り換える国分寺駅には時々珍客がやって来ていました.それは下河原線経由で出入りする東芝府中工場関連の車両、駅西側にある鉄道学園への車両.そして国立駅から出入りする鉄道技術研究所への試験車両などがすべてここを経由、滞留するからです.
レコードランナーのクモヤ93、南海電鉄の新製凸型電機、キハ82などが記憶に残っていますが、もっといろいろ来ていました.私が中学へ入学する数年前には近鉄のビスタカーや営団銀座線の車両が来ていた、なんて鉄では無い先生が言うもんですから、線路の幅が違うのに来られるはず無い!と逆らったのを覚えています.ところが後日、TMSのバックナンバーを見ていたら(鉄道ファン誌が発行されるまではTMS誌にも実物記事が載っていた)、外国技術者向けの展示会を技術研究所で開催した時に、ビスタも銀座線も本当に来ていたのでした.(もちろん仮台車に乗ってですよね)

その他にも下河原線のクモハ40、下河原線、技研線と入換の8620(後にDD13)、中央線のED16、ED17、ED60、ED61、EF10、EF11、EF13など.そして西武国分寺線のクラシック舶来電機達も当たり前のように姿を見せていました.

写真は磐越西線の電化を前に、増備の続いていたED77型(9号機)です.違う番号機が毎日のように東芝工場から搬出されていました.(1967.6 撮影)

2005/07/18 PM 07:21:03 | [電気・ディーゼル機関車]

No.17 飯山線のC56160
ネガを見ていると時折、まったく記憶の無いカットを見つけて驚くことがあります.3年前にホームページを立ち上げてからは、目をさらのようにしてネタ(ネガ)探しをしていたので、そういうことはさすがに少なくなってはいるのですが.
今日は1966年2月4日に初めて雪国飯山線へ撮影に行った時のネガを見ていての発見です.十日町駅からキハ52の列車で飯山駅へ向かったのですが、途中、多分森宮野原駅でのC56牽引列車と交換のカットがありました.キャブより前しか写ってないつまらない写真ですが、「はて何号機かな?」とルーペをあてて見ると、何と梅小路のスター、ラストナンバーの160号機じゃないですか.普通はここまで来ると「ああ、そうだった」と思い出すものなのですが、まったく覚えがありません.
C56160といえば上諏訪機関区所属の時代が有名で、小海線に貸し出された姿や、その後の七尾線での活躍が雑誌でよく見られました.しかし飯山線時代は自分で撮っておきながら全く印象がありません.
飯山線仕様だけに煙突横のツララ切りとスノープラウが勇ましいですが、ツララ切りはこの日撮った他のC56、101や111のネットが張ってあるタイプではなく、帯板を円弧状に曲げてあるだけのものですね.

余談ですが、この森宮野原の駅名は宮野原の二つの大字名を組み合わせたものです.これが非常に珍しいもので、森は長野県栄村、宮野原は新潟県津南町との越県でのカップリングです.ちなみに駅自体は長野県側にあります.ここは、ちょうど並行して流れる千曲川が信濃川に名を変える処でもあります.信濃の国(長野県民じゃないので歌えませんが)を出たところで信濃川になるんですね.
信濃川といえば日本一の大河ですが、源流は小海線信濃川上駅(そのまんまの名称)から秩父山地に分け入った辺りですし、飯山線にはほぼ全線に渡って並行、最後は越後線にも沿う、ということでC56には縁のある川のようです.

2005/07/17 PM 05:55:55 | [現役蒸機の時代]

No.16 西武鉄道400両突破記念乗車券


この付"録"も始めてから半月を過ぎました.今のところ1日も欠かさずにアップできてるんですから"三日坊主以前"と公言していた割には優秀なもんです.それも日増しに内容が濃くなって行くような気がするのが怖いのですが.

1965年2月18日、なぜか中途半端な日付ですが
「西武鉄道保有車両400両突破記念」
という記念乗車券(10円、20円、30円区間の3種)が西武鉄道全駅(多摩川線を除く)で一斉に発売されました.
中学2年の私は、これは一番切符が狙えるぞ!と考えて、当日午前3時前に寒風の中を自転車で家から一番近い保谷駅へ.しめしめ、まだ暗い出札口前には誰もいません.一番電車は4時27分発の池袋行ですから10分頃には駅の電気が点いて窓口が開きます.「え〜と、記念乗車券10円を10枚と20円と30円を5枚づつ下さい」声が震えます.すると後の方から「そんなに買うのかよ!」との声がかかりました.実はその10分位前から10人くらいが続けてやって来て、列を作っていたのです.タッチの差での到着であれば0001を分け合う、ということも考えられますが、こちらは1時間以上の先着です.遠慮することは無いと考えて堂々と購入しました.
それで終わりではありません.保谷駅は一番が始発なので窓口が開くのが早いのですが、所沢寄りのひばりヶ丘駅は少し後です.ひょっとして、なんて考えて自転車で急ぎましたが、到着したとき、ちょうど一人の小学生が記念乗車券を持って出てくるところでした.でもその小学生は1枚づつしか買わなかったようで、0002を3種ゲットできました.その後は新宿線の田無駅、西武柳沢駅と廻りましたが、いずれもヒトケタ番号が残ってました.聞くとどの駅も列はできなかったそうです.
どうも保谷駅が周辺では一番競争率が高かったようです.そこでヒトケタを買い占めていった中学生は、やはり悪い人だったのかも知れませんね.
残念ながら今手許には残っていないのですが、当時複写した汚いネガがありますのでスキャンしてみました.

ところでこの記念乗車券には[急行池 袋]の行き先幕を掲出した701系+411系+701系の、当時では一番最新車両の10両編成が写っています.この写真は記念乗車券発売告知ポスターの図柄にもなっていたので、場所は何処だろう?と友達の間でも話題になりました.
ある友人が「あそこじゃないの?」と言ったのです.私もその場所は知っていたのですが、前提条件が違うんですよね.何故ならばそこは池袋線じゃなくて、新宿線なんですから!しかも当時新宿線では10両はおろか最大が6両編成だった時代のことです.
事実その場所で間違いなかったようですが、今だったらマスコミなどに、何らかのイチャモンを付けられてもおかしくない、ようなことかも知れませんね.
(今お前が付けてるんじゃないか!なんて声が聞こえてきそうです)御意.
ちなみに記念券の写真の編成、もちろん合成では無いです.撮影のために仕立て、現場に停車させて撮影したと広報誌に書いてありました.場所の説明はありませんでしたが.


↓この写真は西武新宿線東村山-所沢間、ちょうど東京都と埼玉県境の柳瀬川鉄橋です.




2005/07/16 PM 04:45:38 | [西武鉄道]

No.15 中国普蘭店のトロッコ
列車で旅をしていると、車窓から思わぬものを発見することがあります.あわててカメラを取りだしてスナップしたとします.日本国内ならその場で何か判らなくても、だいたいの場所さえ掴んでおけば後日に調査をすることが可能です.
しかしこれが海外となると、まずその場所の特定が難しく、多くの国を巡る長い日程の旅行であれば、どこの国かも判らない可能性さえあります.
今のデジタル機ならば日時データが記録されるので、その点少しはマシかとも思いますが.ついでに近くの駅名や地名の写っているものを撮っておくべきでしょうね.
近い将来にはGPSにより緯度経度まで記録されるようになるでしょうか.(GPS付きの携帯があるので、もう実用化されてるのかな?)
スナップもできなかった場合は、記憶だけが頼りですが、夢だったと思った方が良いかも知れませんね.
そんな話しもいくつかあります.


この写真は1984年10月.中国黒龍江省朗郷から乗車した夜行列車が翌日の午前中、はるばると大連に到着する少し前です.「普蘭店」という駅名がメモにあるので、大瀋線普蘭店駅(遼寧省)の前後だと思います.
朝陽を浴びた車窓の中、遠くの方でチョコチョコ動くものを発見! 朗郷でナローの森林鉄道をさんざん見てきた後なので、その辺の感覚が鋭くなっています.即、カメラに300mmを付けて覗いて見ました.「ん〜、なんじゃい?」というような列車というかトロッコというか、の姿が目に飛び込んできました.判断は後回しで、まず記録です.幸い列車との間に障害物が無かったようで3カットほど撮影できました.

別カットの列車の部分を大トリミングして拡大したのがこちら.1000mm相当以上になっているかも知れません.フィルムがEXだったのでこの辺が限度です.2フィートかそれ以下のナローであることは間違いありません.子供が描いた絵のようなシンプルな青い機関車とそれに続くトロッコ達、近くで見てみたいですね.

この時一緒に見た数人がおりますが、再訪したとの話も聞かず、さりとてこの路線?の情報も探しようもなく現在に至っています.
このトロッコ、常設のものなのか、工事用の臨時のものなのか、常設なら何を運んでいたのか?
謎は深まるばかりですが、20数年を経た今も健在だったら嬉しいですね.どなたかご存知ありませんか.

もし旅のついでに探してみよう、という奇特な方が居られましたらプリント用の画像データを提供いたします.

2005/07/15 PM 05:36:56 | [車窓から?!]

No.14 パリ祭
7月14日はパリ祭です.でもこれは日本だけの言い方のようです.本来はフランス革命記念日 (Defile militaire du 14 juillet) なんですが、日本ではほとんど "シャンソン音楽祭" のことになってしまっています.(シャンソンは大好きですので他意はありません.ジュリエット・グレコのLPも何枚か持ってます)
パリ祭という言葉は、昭和初めのフランス映画の邦題「巴里祭」から来ているようです.

1789年7月14日にパリ市民が武装蜂起、その後10年に渡るフランス革命の始まりを記念したフランス最大の記念日、という本来の意味を日本では理解している人は少ないのではないでしょうか.シャンゼリゼ通りで軍事パレードが行われる様子はニュースなどで見ますが、私も世界史は苦手ですのでこれ以上は(つっこまれると困るので)触れないことにします.

私にとって7月14日は初交通違反記念日になります.1972年7月14日、友人達3人と北海道に取材旅行に行った時です.東京から一昼夜かけて走って行った苫小牧市内でみごとパトカーにやられました.32km/hオーバー!当時25km/hオーバー以上は6点減点、一発免停です.しかも後日武蔵野検察庁に出頭して、罰金弐萬伍千圓也が言い渡されました. その後30数年でいろいろありましたが、今は無事にゴールドになっています.
この取材旅行は今某N出版社の社長になっている某氏も一緒だったのですが、彼もネズミ取りで御用になりやはり免停.鮫津(免許センター)への呼び出しが二人とも同じ日で、友人同士が机を並べて講習を受けるという珍しい体験をしました.

写真はパリ祭、ということでパリ郊外のSNCF(フランス国鉄)電車です.1976年9月

2005/07/14 PM 09:23:06 | [ヨーロッパ]

No.13 コッペルと写った石灯籠


上の写真は、昨年11月にアップした西武山口線Galleryで使用した写真(一部トリミング)なので、見覚えがあるかと思います.キャプションには写っている石灯籠について、「1975年に開山の狭山不動寺建設の資材では?」などと書いたのですが、その後の新聞の報道で、実はそうでは無かったことが判明しました.

(2005年)3月26日付け朝日新聞夕刊の「増上寺石灯籠を探せ」の記事を読んでピンと来ました.あれがそうだったんだ〜.と.
東京、芝の増上寺、徳川家霊廟に建てられていた石灯籠だったということです.以前の増上寺は広大な境内を持ち,徳川家の菩提寺として霊廟には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6人の将軍の墓所があり、他にも正室や側室のものなど数多くの墓があったと云います.
ところが明治時代の大火、太平洋戦争での大空襲などで増上寺はそのほとんどすべてが焼失してしまいました.
現在のような立派な増上寺に完全復興したのは1975年のことになります.
復興の際、資金捻出のために旧霊廟跡付近の敷地は払い下げられて、東京プリンスホテルが建設されました.千数百基もあったといわれる石灯籠は運び出され、所沢市の山口線沿線の例の場所に野積み状態で放置されていた、ということになります.
これらの石灯籠は江戸時代に300諸藩から寄進され、霊廟への参道や周囲に建てられていたという由緒あるもので、それぞれ高さ2m以上の巨大なものです.それらが立ち並ぶ様は時代劇のワンシーンを思わせますね.
その後1970年代後半に西武球場(現在の西武ドーム)建設にあたってその土地を利用することになり、多数の石灯籠は周辺および関東各地、さらに新潟や秋田の寺院にも配布されたとのことで、それらの分布を今研究者の手で調査中である、という記事でした.

コッペルと写った石灯籠達、撮影時のことは良く覚えていませんが、やはり面白い被写体と思って組み合わせたのだと思います.文化財にでもなろうか、というような由緒あるものが道端に野ざらしで放置されていた、なんていうことも信じられませんね.
そんな写真が30年以上経って陽の目を見た直後に新聞紙上で話題になるとは.本当に奇遇ですが、もしその順序が逆だったら果たしてその記事に目を留めたでしょうか.

上の写真では何基も写っていませんが、下の写真は同じ場所を遠景で撮ったものです.右のクレーンの上あたりにゾロゾロ居るのが判りますでしょうか?



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2005/07/13 AM 10:06:49 | [西武山口線のコッペル]

No.12 常磐線特別快速乗車
昨日柏-上野間で初乗車をしました.しかし上りの一番電車が柏11時30分発ですから、普通のサラリーマンだったらなかなか乗車の機会は無いですよね.

まあ最初と言うことで先頭車に乗車しました.E531系は見るのも乗るのも初めてで、HIDのヘッドライトを輝かせながら入線してくる姿はいささか眩しく見え、いい齢して興奮しました.

運転台後にはファンの若者達がたむろしていて近づけませんでしたが、先頭ドア右側付近にポジションを確保できました.ここからだと列車前方や、通勤型E231系よりも高い位置にあるインパネのスピードメーターとその下に表示される白い大きなスピード数値も何とか見えます.
今までの415系がmax100km/hだったのですから、130km/hというのはとてつもない数字です.松戸までの間では何度も120km/hを超えるのですが、すぐに制限ヶ所にかかりブレーキ!今まで100km/hで走れた場所がすべてそれ以上で走れるようになったわけでは無いので、当然制限も多くなります.

松戸を出て江戸川鉄橋を渡れば、しばらくは最高速で走れる区間の筈ですが、残念ながら亀有付近で工事徐行!そこを通過してからはフルスロットルで加速.運転手さん頑張ってくれて129km/hでノッチオフ、そのままレバーを前に倒してブレーキ、荒川鉄橋前のカーブ制限速度をピッタリとクリア、上手い!

北千住では柏を6分も先行して発車した快速電車(停車駅は同じ松戸だけなのに)を待避させて轟然と通過、そして日暮里まで柏から僅か20分で走破して定時に到着しました.
いやいや、時計を見て本当に速さを実感しました.大げさに言えば、初めて300系の「のぞみ」に乗ったときと似たような感覚ですね.

さぞやスピード感ある走りだろう、と思われそうですが、これが期待を裏切って申し訳ないほど全くありません.最初から何か引きずるようなビビリ音が若干台車から出ていましたが、120km/hを超えても顕著な揺れや振動はほとんど無し、という秀逸なもので、関西の新快速223系のような豪快な走りとはちょっと違う感じでした.
座席にも座ってみましたがロング部分、クロス部分とも最近の電車としては柔らかめのシートで、座面寸法も若干大きくなっているようで良い座りごこちでした.黒い吊り手もグッドセンスです.

毎日この列車に乗りたいのですが、この列車に乗ると、職場に着くのが大変遅くなってしまいます.(というか昼過ぎ)もう少し早い時間から走って欲しいですね.

百聞は一見に如かず、と言いますから.ぜひ体験乗車をお勧めします.茨城県には魅力的な私鉄が多いですから特快を利用しての撮影など如何でしょう?



2005/07/12 PM 08:49:34 | [常磐線東北線のEF510/EF81・その他常磐線TXなどの話題]

No.11 磐越西線の想い出
1968年7月、高3の夏休みが始まった頃に会津線、日中線、信越本線などの蒸機撮影に1泊2夜行の小旅行をしました.
2日目の夕方、喜多方でC12の日中線混合列車の到着を撮った後に、磐越西線の普通列車で新津に向かいます.
C57172号機の牽引で、先頭客車のスハ32に乗車してシゴナナの旅をしばし楽しんだのですが、車中は夕方とあって下校の高校生でほぼ座席は埋まっていました.(東北なので夏休みの開始は遅い)当時は彼らと同年代ですから別に違和感もなく、景色を楽しみながら会津訛りのおしゃべりを聞いていました.

県境の徳沢駅までで当然ですが、彼らは全員下車してしまい、列車自体にも乗客はおそらく数えるほどしか残っていなかったと思います.
夏なので冷房など無い客車は当然のごとく、ほとんどの窓が開け放たれたままです.磐西をご存知の方ならお判りかと思いますが、この先いくつかのトンネルがあります.

徳沢駅を出てすぐの短いトンネルでも車内は煙が充満してしまいました.さあ〜大変!です.先ほどスハ32と書いたのを覚えているでしょうか?スハ32は各ボックスに窓が二つずつある旧型の中でも古い客車なのです.こいつを律儀に全部閉めて廻りました.もちろん一人でです.それがどれだけ大変な作業だったことか.ってあまりよく覚えてないのですが.
「降りるときには窓を閉めて降りろよ〜」今ここで吠えてもぜんぜん遅いんだよね.


2005/07/11 AM 10:31:45 | [現役蒸機の時代]

No.10 115系
上野駅ではもう115系は見られません.1962年頃の登場と思いますから40年以上走り続けて来ました.通勤や通学で利用したことは無いのですが、東北、高崎、上越線方面の小旅行でちょくちょく利用してきましたし、御徒町や秋葉原で留置されていた姿はつい最近まで毎日のように見ていたのですから、ちょっぴり寂しい気持ちです.
1970年頃に、雪の只見線のC11撮影行に長岡行きの夜行に小出まで利用したのも懐かしい想い出になりました.

先日6月19日、頸城鉄道の車両公開に出かけたときには、早朝に出発して普通列車乗り継ぎで越後湯沢まで行き、ほくほく線に乗り換えました.
上野-高崎間はやはりE231系でしたが、クロスシートに座れたので楽ちんでした.高崎からは湘南色115系の3連です.あの狭くて直角のクロスかと思いきや車内はリニューアルされていて、座り心地の良いシートに換装されていました.何と言っても窓の下側が開けられるのが良いですね.利根川沿いの爽やかな風に当たりながら水上へ.ここで同じ115系ながら新潟色の車両に乗り換えです.山越えだけあって4M1Tの強力編成でした.そして新清水トンネルを抜けて越後湯沢まで115系の走りを堪能しました.
緑ラインの新潟色の車両は新鮮ですが、車番表記が連結面寄りにあるのも面白かったです.

帰りも同じく普通列車で帰る予定でしたが、越後湯沢での1時間待ちの接続が厭になり、大宮まで新幹線に乗ってしまいました.
乗車予定だった水上行の普通列車が越後湯沢を出る時間には、もう大宮到着です.

2005/07/10 PM 07:30:42 | [電車・気動車]

No.9 月光仮面
今日は7月9日、ここ自宅から最寄りの柏駅の常磐線がダイヤ改正の日です.今回は対TX!ということで、E531系投入による特別快速を最高130km/hで運転なんていう目玉があります.もうそろそろ最初の列車が走っている頃ですね.
そもそもTX(つくばエクスプレス、秋葉原-つくば間、8月24日開業予定)は常磐線の混雑緩和、という目的もあって建設したのですから、そこで競争するというのもなんだかおかしいな、とも考えますが結果的に両方が便利になる、というのならばそれはそれで良いのでしょう.

今日はぜひその特別快速の写真を撮ってきて、トップページとこのブログで速報しよう、なんて思っていたのですが、朝からこの天気! ちょっとその気になりません.

鉄道とはまるで関係の無い話しもたまには.

今朝の朝刊を見ていたら歌手の三船浩さんの訃報に接しました.若い頃にはなかなかの男前で、独特な低音が魅力の方でしたが、何と言っても思い出すのは「月光仮面の歌」です.
そう、僕らの子供の頃の超アイドルヒーロー、月光仮面です.
と聞くと、おいおい、月光仮面の歌って、何とか少年合唱団とかが歌ってるんじゃないの? って言われそうです.
はいはい.正確には"近藤よし子とキング子鳩会"なんですけど.
例の「ど〜このだ〜れかは 知〜らないけれど♪〜」っていうやつですね.あれは「月光仮面は誰でしょう」というタイトルでメイン・テーマの方でして、
三船浩さんのは「月光仮面の歌」というタイトルで、エンディング・テーマとして番組の最後に流れていました.

スローなバラード?調で

「月の光を 背にうけて 仮面にかくした この心
 風が吹くなら 吹くがよい 雨が降るなら 降るがよい
 愛と正義の 為ならば 何で惜しかろ この命
 我が名は月光 月光仮面」

というような歌詞でした.知ってる人は間違いなく、もと月光仮面オタクのおじさんです.(途中から月の砂漠になってしまう人も多いかも)

当時はまだ小学校低学年でしたが、この哀愁のある歌詞とメロディが妙に心を打ち、今でも歌詞がスラスラと出てきます.
一度だけどこかのカラオケで見つけて歌ったことがあるような・・・・.
そんな思いに浸る人が、どれくらいいるのでしょうか?
拙文を読んで、思いだして頂ける人が何人かでもいらしたら幸いなのですが.
三船浩さんのご冥福をお祈り申し上げます.

月光仮面の時代はちょうど、東海道本線で「こだま」号が運転が始まり、家では0ゲージの模型で遊んでいましたから、私の鉄道趣味としては初めの頃の話しですが、同じように漫画も野球も、サッカーも好きな普通の少年でした.

永島慎二さん、串田孫一さんと訃報が続きますが、昭和の時代と想い出がどんどん遠くなっちゃいますね.
(特にオチも無い話しで失礼しました)

2005/07/09 AM 11:46:41 | [音楽・映画・テレビなどエンターティンメント]

No.8 C11静内発車とGIFアニメ


最近GIFアニメに凝っています.macでは無いのかな、と思っていたフリーソフトを発見、バナーやトップ写真、そしてこの上↑でピカピカ光っているweblogの文字などもその成果です.
迫ってくる列車シーンをGIFアニメにすると動画には敵いませんが、なかなかのもんです.
でも、です.今だったら連写連写でその素材に関しては簡単に作れますが、30年以上の昔になるとまずモードラどころかワインダーも無し(無いことは無かったですが超高価の高嶺の花、というか欲しいとも思いませんでしたが)、フィルムも貴重でした.たまに三脚で固定しての連写風撮影をしていましたが、1カットずつ手巻きで撮るもんですから若干カメラも動いてますね.
webにアップするのでも、何枚も画像ファイルを重ね合わせて作るので大サイズでやろうとすると、当然重くなってしまいます.

日高本線静内駅でのカットは今で言う正面ドカン!ですが、真っ正面から狙うために200mmレンズを調達しました.場所は静内の駅構内、そのまま行けば行き止まりの安全側線?上で、このカットの後に列車は左側へ曲がってゆくわけです.もちろん関係各所にはご挨拶済みです.(どころかご紹介で静内の国鉄寮に宿泊させて貰ってました)
このC11286はこのあと、私の横で停車してしまったのです.(私のせいじゃないですよ) 走ってきた駅長さんと機関士さんが二言三言話していましたが、再び発車して行きました.おかげさまで私は出発シーンを2度撮れるという恩恵に与りました.

撮影は1970.3です.

2005/07/08 AM 12:28:06 | [現役蒸機の時代]

No.7 大沼駅、駒ヶ岳とD51
1976.3 函館本線大沼駅を出発するD51737牽引の上り普通列車です.バックには名峰駒ヶ岳がそびえています.これは望遠レンズの圧縮効果でこのように迫力ある構図になるわけですが、実際に目で見た場合はこのように見えるのでしょうか?
まあそれはそれとして、駒ヶ岳は過去の噴火で頂上付近が吹き飛ばされた結果、あのような独特な山容になっています.函館本線の列車はその麓を縫うように、くねくねと右へ左へと進んで行きますが、天気の良い日に車窓から見ていると、どんどんその姿が変わってゆくことに驚き、また感動します.
でもこの素晴らしい景色も、北海道を訪れるのに飛行機利用がメインになってしまったので見る機会が減ったのが残念です.

2005/07/07 AM 02:30:35 | [現役蒸機の時代]

No.6 雨の朗郷
1984年10月.中国黒龍江省朗郷.
昨日の晴天とはうって変わって、明け方からしとしと雨降りです.それでも森林鉄道1日1本の旅客列車ですから、朝食前にホテルを抜け出して撮影に行きました.
朗郷駅を出てカーブを曲がると、ナローファンが泣いて喜ぶ併用軌道になります.舗装もされておらず、この雨で水たまりとぬかるみだらけですが、ちょうど通勤時間とあって自転車がひっきりなしに通って行きます.
トラムなどでもそうですが、併用軌道での撮影ではクルマ、人、そして自転車などとの被りに気を使ってしまいます.列車が来たときにまさか交通を止めるわけには行きませんから、臨機応変にアングルを変えられるように心構えをしておかなければなりません.
幸い雨は小止みになりました.汽笛が鳴って、今では日本のファンにもお馴染みになったC2型蒸機がカーブから8両の客車を牽いて現れると、案の定自転車が被りそうです.機関車の頭に重ならない瞬間にかろうじて何カットかシャッターを切ることができました.

2005/07/06 AM 02:38:36 | [中国の鉄道]

No.5 オタモイ-2
同じく1969.3のオタモイ、ネガの次のカットはこれです.言わずと知れたC62ダブル、それもツバメ付きのC622が先頭に付いてます.ローアングルからなので排気で2両目がよく見えませんが・・・・.
当時小樽築港機関区のC62は、もう2.3.32.44の4両のみの配置.これで103、104列車の函館までの本務機と長万部までの補機運用をこなしていて3日で1サイクルでした.ですから補機運用は原則として同じ機関車が3日連続であたります.末期のように2号機を優先的に補機に入れるようなことは無かったので、ツバメが先頭で風を切る姿はなかなか見ることができなかったのです.
そのかわりに一旦補機運用に入ったのが判るとその3日間は山線に釘付けとなります.ですから渡道すると同業者からの聞き取りや、小樽築港区を訪ねて情報収集に入ります.東京駅の前にあった国鉄本社のPRコーナーで鉄道電話を借りて直接聞く、なんてウラワザもありましたが.

話しが外れますが、このPRコーナーでは日本全国の国鉄線のダイヤを閲覧することができました.まだダイヤ情報なんて雑誌はありませんでしたから、ここでコピーさせてもらっていました.コピーとは言ってもコピー機など普及する前ですから、カメラにコピー用フィルム(ミニコピー)を詰めて三脚の下側に取付けての複写です.これで貨物列車の時間や補機付き列車もバッチリ判ります.4ツ切印画紙(ヒシコピー)にプリントして撮影に持っていくのはもちろんです.

閑話休題.渡道してC622の情報を掴むとその3日間を中心に、他の路線での撮影行程を臨機応変に決めていました.
でも裏切られることも度々、4両での運用ですから1両が入場していたりすると予備機は無し.そのため1両でも具合が悪くなると一泊運用となる本務機と補機の運用差し替え、最悪D51の代走なんてこともままあったようです.
C62の運用については他にもいろいろありますが、それはいずれその写真を添えて、ということで.

2005/07/05 PM 03:47:24 | [現役蒸機の時代]

No.4 オタモイ-1
函館本線小樽-塩谷間のオタモイ越えは、小樽駅を発車してすぐの20‰連続勾配で、今も昔も山線の難所の一つです.でも倶知安峠や上目名と違うのはここが小樽市内で住宅地の中にある、ということでしょう.
現在はさらに国道のバイパスができてしまい、なかなか好撮影地とは言い難い場所なんですが、一ヶ所だけ林の中を通る部分が僅かながらあり、C11207SLニセコ号の撮影地として良く写真を見るところです.
写真はやはり1969年3月、そばに学校があった印象があるので、おそらくその今は林になっている場所付近だと思うのですが、D51367の素晴らしい爆煙シーンが見られました.
普通このような正面がちのカットでは望遠を使い煙を強調するのですが、これは50mm、標準レンズ.それだけ煙が上方へ勢いよく上がっている証拠ですね.
標準から85mmくらいの中望遠で撮る写真が特に列車写真の場合、自然に見えて好きなのですが、組写真として何点かで構成するとなるとアクセントが無くて、変わり映えのしない味気ないものになってしまいます.

2005/07/04 AM 02:08:00 | [現役蒸機の時代]

No.3 深川のC5516
ついに三日坊主の最終日?
ここはやはり蒸機現役時代の写真にご登場願いましょう.昭和44年は1969年ですね.3月も末で線路に雪はありませんでした.場所は函館本線の深川駅、当時の電化区間は滝川までだったので架線はまだありません.
滝川まで電化とはいっても蒸機列車もまだ多く、この日も札幌-深川間はD51の牽く10両の客車列車に乗って来たのですがさすがD51、加速が良いのに驚きました.
旭川-滝川間は蒸気機関車オンリーで、この区間にDD51はまだ走っていなかったような記憶です.旅客列車はC57とC55そしてD51です.この時はC5516に出会えてラッキーでした.
しかし、このように煙が右手に流れるとフレーミングが難しくなります.これをフレーミングの右手の・・・・×!☆☆☆-----

2005/07/03 AM 09:53:08 | [現役蒸機の時代]

No.2 ウソ電
学生時代に写真を勉強していたんですが、暗室ワークが結構好きで、覆い焼き、焼き込みなど得意としていました.ボール紙で型紙を作るときもありますが、大抵は手だけで器用にやっていたものです.おふざけの合成写真など作って先輩をだましたりして面白がっていたこともあります.

今また同じようなことがPC上でできますので、たまに遊びます.しかしはっきり合成であることを謳わないと写真だけが独り歩きをしてしまった場合、見た人が混乱してしまいますね.ウソか本当かというような微妙なのを作るよりも、こりゃ絶対にありえない、というような大げさなもののほうが変な誤解を生まなくて良いかと思います.

でも、こういうことばかりやっていると本当にちゃんと撮った写真まで疑われてしまうこともあります.現に先日アップした日立電鉄終焉の時の「フレッシュひたち」との離合シーンは疑われてしまいました.文句を言う人には原板をお見せしますよ.

写真は1975頃でしょうか.東北本線蓮田の元荒川鉄橋です.左側がクロというのが味噌です.撮影時からこのような合成をしようと思っていたかどうかは定かではありません.
小学生の頃、親父に連れられて良くこの場所へ釣りに来ていました.その頃はD51、C57、C61がバンバン走っていたんです.

2005/07/02 PM 01:02:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [original image]

No.1 付"録"です
ここのところ、あちらこちらのサイトでブログというものを始められていて、いつも楽しまさせて頂いています.私のところでも、と何度も思ったのですが、いくつものBBSを抱えていてさらにブログを、となるとさすがに二の足を踏んでいました.
今までコンテンツにもできないような写真や、当日撮影の速報写真などは不定期にBBSにアップしてきましたが、タイミングなどから、なかなかそれを見て頂くのは難しく、そのうちに下の方に沈んでしまってもう陽の目はほとんど見られない、なんてことにもなってしまいます.

借りているTOK2(トクツー)サーバーでブログが使えるというので、とりあえずスペース確保だけしてみることにしました.子供の頃から日記なんて三日坊主以前、書こうという気にもならなかった人間なので、毎日、というわけには行かないかもしれませんが、不定期に写真中心にやって見たいと思います.

その記念すべき第一回目の写真は何にすんべ〜、と考えましたが、えいやっ!と掴んだポジ、2002年1月2日の真岡鐵道にしました.
おそらく歴史に残るような天矢場での重連大爆煙、思わず拍手したくなるようなシーンでした.(誰もしませんでしたが)ここは有名な撮影ポイントですが、正面がちに撮らないとバックに道路が入ってしまうので、意外と撮りにくい場所です.

今後ともよろしくお願いいたします.

2005/07/01 PM 04:51:17 | [復活蒸機の走る線]










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